2か月前、およそ一年間のパリ滞在を終えて日本に帰る日は、記録的な大雪だった。
いまふたたび訪れるパリは、桜が咲き、日によっては半袖でも過ごせるくらいの陽気だ。
一年前、右も左もわからずにやってきたころとは、がらりと変わった環境に感じることを書きました。
パリの街が、全然違う街になっている。
物理的な意味で「違う街」になっているということはもちろんなく、いまそこに立つ僕自身にとって、一年前とはまったく違う街として感じられている。
2017年3月、文字通り身一つで僕はパリにやってきた。
あのとき、勢い勇んでパリ行きを決めてきたものの、パリに住んでいる知り合いはほぼゼロ。仕事はもちろんゼロ。
最初の1,2か月はとにかくあいさつ回りの時期だった。
自分は何者で、何ができて、何をしに来て、どんなことで力になれるか。それまで自分が意識していた以上に「自分」が何者であるかを考え、伝えた。
自分は何をしにパリに来たのか。
どういう姿勢で書に向き合っていくのか。
どんな書家でありたいのか。
どんな仕事を生み出していけるか。
なによりも書が「好き」だから自分は動けた。
でも自分の「好き」だけでは仕事はできない。
フランスの、圧倒的なまでの「アート文化」を目の前に、感じ、考え、そして動いた。
あのとき、歩き回っていたパリの街には
根拠のない高揚感と憧れ、そして大きな不安を感じていたけれど、
いまふたたび訪れるこの街が自分の居場所としてあることが、多少の驚きであるとともに、もちろん嬉しくもある。
「とりあえず3年」よりも、「必死の一年」。
なにかと、
とりあえず3年という人は多いけど、「とりあえず」すごした時間は「とりあえず」の結果しか生まない。決断を先延ばしにするだけの、単なる猶予期間になってしまう。
人をより確かにしてくれるのは、とりあえずの3年ではなく、何年でもいい、「必死になった時間」の積み重ねなのだと思う。
もう一年、もう一年と、しがみつく思いで、3年後にどこまで行けるか。
楽しみで仕方ない。
そんな、必死に過ごしていた一年間の記事はこちらです