なぜ僕は書家になろうと思ったか。

僕は6歳のときに祖母に教えられて書道を始めた。

書道の練習が大好きだった。

でもそのころは、プロとしてやっていこうなどということは全く考えていなかった。歳をとっても、趣味として続けられたらいいなと思っていた。大学3年の、ある経験をするまでは。

先月、日本を出国する前にNippon Collectionさんにインタビューいただき、そのインタビューの中であらためて「自分がどうして書家を志したのか」をお話しした。

そのお話。
(インタビュー記事はコチラ)

大学生のころまで、僕が取り組んでいた書道は主に臨書だった。

臨書というのは、古典や先生が書かれた書をお手本として書くというスタイルで、おそらく多くの方が経験したことのある書道・習字もこのスタイルだと思う。中学校までは、祖母や地元の書道教室の先生が書いてくれたお手本をもとに、せっせと練習した。目指していたのはコンクールで賞をとれるような上手い字を書くことだった。

高校になって、中国や日本の古典に触れるようになった。だが、このときもやはり目指していたのは「入賞」する作品を作ることだった。どんな古典を臨書すれば評価してもらいやすいか。どんな線が「上手い」という評価をもらえるのか。そんなことばかり考えていた。

書道に取り組む姿勢を大きく変えてくれたのは、東日本大震災後のボランティア活動での出会いだった。

 

2011年3月11日、僕は大学2年生だった。

あの日、オーケストラサークルの友人と一緒に、先輩の誕生日ケーキを買いに三鷹駅近くのケーキ屋にいたときに地震があった。あの数分間の感覚は今でも鮮明に覚えている。4月の入学式が中止になったり計画停電が行われる中、大学3年に進級した。自分も何かしなければ、という気持ちがありながらも、震災直後に一学生にできることはほとんどなかった。

無理に東北へ行って、支援活動の妨げになっては元も子もない。まずは、自分の足元をしっかり整えること。ボランティア活動はそれからだ、と自分に言い聞かせながら時間ばかりが過ぎた。

ようやくボランティア活動に参加できる機会が訪れたのは2011年6月のことだった。大学の先輩が、掲示板にアナウンスしていた情報をみて「これなら自分にもできる」と思い、参加を決めた。そのときは想像もしていなかったが、多くの方・企業に支えていただきながら、このボランティア活動をその後2年間つづけることができた。

そのボランティア活動でのことだ。

ボランティア活動をしていた岩手県大槌町の避難所でたまたま書道の話をしていたら、「せっかくだから何か書いてほしい」という話になった。それが、自分以外の誰かのために書く初めての作品だった。

制作の話をいただいたものの、書く言葉も決まっていなければ、もちろんお手本もなくどんな作品を書けばいいのか悩んだ。そんな中で制作の軸になったのは、その方々が一番大切にしている言葉を書こうということだった。

大槌には鹿子踊(ししおどり)という伝統芸能がある。海と山に囲まれた大槌で、山の恵みに感謝する踊りだ。ボランティア活動中に、実際にこの踊りを見せていただいたのだが、鹿頭(ししがしら)をかぶった踊り手が、笛や太鼓のお囃子にあわせて一心に舞う様子は本当に迫力があり、また、老若男女が参加するこの踊りに地域の伝統の重さを感じた。


Photographed By Takanobu MORI

作品制作のお話をいただいた方々が取り組まれているこの鹿子踊をテーマに作品を作ろうということで、「鹿鳴」という言葉を、伝統の重みを表現すべく篆書体(もっとも古い漢字体のひとつ)をベースにして書き上げた。その作品を見ていただく機会があり、「これは、本当に自分たちが考えている『鹿』そのものだよ」と喜んでいただけたあの瞬間は忘れない。

僕にとってのそれまでの書道は、上手い字を書いた作品がコンクールで入賞すれば自分が嬉しい、というものだった。でもこのときは、自分以外の「人」を想って書いた作品を喜んでもらえた。おごった言い方かもしれないけれど、書道が誰かのためになるんだと感じた体験だった。この体験から、もっともっと人の想いを大切にした表現や、言葉そのものが持っている力をというのを強く意識して書道に取り組むようになった。

きれいな字を書くことも書道の意義の一つだと思う。

しかし、言葉の持つ力はときに人を大きく変えることができる。
「言葉」を自由に表現できる書道という芸術の可能性は、僕がそれまで考えていたよりもずっと大きなものだった。

「綺麗だな」とか「上手だな」だけではない、もっともっと心を揺さぶるような、その人を突き動かすような、そんな表現を探っていきたいと思っている。