ついに自由は彼らのものだ(三好達治「鷗」より)

「ついに自由は彼らのものだ」

週末、ムジカプロムナードの演奏会が無事終わりました。

足を運んでくださった方々、本当にありがとうございました。

 

演奏させていただくとともに、ロビーに作品を飾っていただきました。

演奏した曲目のひとつ、「鴎」より、

「ついに自由は彼らのものだ」という一節を書き上げました。

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「鷗」に書かれた「自由」とは何か

以下、演奏会のプログラムに書かせていただいた「鷗」の紹介文です。

 

自らの眼で見、自らの判断をし、自らの行動にうつす。

本性のままの純粋な生き方というふものを、今日を生きる私たちはどれだけ体現できているだろうか。

数字やお金に惑わされ、時間に追われ、本当に大切なものに目が届かなくなっていることに、先の震災はその自然の力をもって私たちに気付かせてくれたのかもしれない。

 

自由であるということは、テレビや新聞で見聞きすることでも、辞書に書いてあることでも、ましてや人から与えられることでもない。

もっともっと単純で、すっきりしたものだと思う。

みなさんにとって、自由とは何だろうか。

 

この曲は三好達治の「鴎」という詩を歌詞として、そこに旋律が添えられたものだ。

「鴎」は、第二次世界大戦の戦後まもなく発表された詩だ。

戦時中、あらゆる自由な表現が抑制され、戦争礼賛の詩を書き続けることとなった三好がようやくその胸の「思い」をささやかに、そして力強く世に表現したものであるとされる。

何度も繰り返される「ついに自由は彼らのものだ」という言葉に込められているのは、二度と声をかけることのできない、戦争で命を落とした人々への祈りであると同時に、三好自身も含む、生き残った者たちの決意ではないだろうか。

それ故、この詩によって唄われる自由は、「我ら」ではなく「彼ら」のものなのだ。

 

多くの犠牲を払う戦いで得るものでも、細々した論理で築き上げるものでもない、「ひとつの言葉で事足りる」ようなもの。

そして、大地に根差し、そこに人々の「思い」と「暮らし」がある。

きっとそんな生き方を、自由というのではないか。

 

自由を支えうるものは、お金でも権力でも武器でも、論理でもない。

自らの二本の足と、「思い」だけなのだと思う。

 

 

「鴎」(三好達治)

ついに自由は彼らのものだ

彼ら空で恋をして
雲を彼らの臥所とする

ついに自由は彼らのものだ

太陽を東の壁にかけ
海が夜明けの食堂だ

ついに自由は彼らのものだ

ついに自由は彼らのものだ

彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳墓

ついに自由は彼らのものだ

太陽を西の窓にかけ
海が日暮れの舞踏室だ

ついに自由は彼らのものだ

ついに自由は彼らのものだ

ひとつの星を住みかとし
ひとつの言葉で事足りる

ついに自由は彼らのものだ

朝焼けを明日の歌とし
夕焼けを夕べの歌とす

ついに自由は彼らのものだ