夜音の中の空

僕が栃木に暮らしていた小学生の頃だったと思う。お盆か何かの時期に、東京の叔母さんがうちに泊まったときのことです。一緒に朝食を食べながらだったか、叔母さんが「夜、車が全然通らなくて静かすぎるくらいだった」と言っていた。何気ない会話の一コマだったけれど、この言葉をいまも妙に覚えていて、夜に窓を開けて外の音を聞いているときなんかに時々思い出します。

ポツリと発した叔母さんの一言を聞いた当時は、分かるような分からないような不思議な気分になった。すんなり分かるような、だけど東京の夜の音を想像することしかできなかった僕にとっては、ザラッとした感覚と一緒に小さいころの思い出の一つとして残っています。
ザラっと感じたのがどうしてかというと、栃木の家の前の道路は、夜中になるとほとんど車は通らないので確かに車の音はしないのですが、夏であれば周囲の田んぼや堀という堀からカエルの声がわんさか聴こえます。例えばそれは、冬の夜のようなしんと静まりかえった「静かな夜」ではないんですよね。
叔母さんも、確か大学に進学するくらいまでは栃木で暮らしていたと思うので、田舎特有のカエルやらの鳴き声を特に騒がしいとは感じなかったのだろうとは思いますが、その夜にこと車の音が聞こえないことをもって、「静かな夜」と感じていたことが、当時の僕にとっては分かるような分からないような、そんな気分だったのだと思います。
僕自身が東京に10年以上暮らして、夜に聞こえる車の音にもいつの間にか慣れてしまった。やはり車の音とカエルの声とでは、それがきこえる夜の印象は、単純なその音量とは別の切り口として、全く違うものだと思う。
今住んでいる家の近くには環七が通っている。深夜近くなれば交通量こそ減りますが、栃木の家のように静まり返るような時間帯はありません。本を読んだり墨を擦ったりしながら、窓からの涼しい風の先にあるその音は、誰かが運転する車から発せられるという意味で、人間臭さのような色があるようにも思います。
静かな夜には、そこにある自然の一部として聴こえるカエルの声も、走り抜ける音の中に「人らしさ」を感じる車の音も、いずれも明日の空を思うには十分に心地の良いものかもしれません。一年で一番短い夜だという夏至の夜にそんなことを考えています。

今日の作品「夜音の中の空」

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