なるほど「春になる」ではなく。

近所のスーパーからの、すっかり暗くなった帰り道。黒いアスファルトに点々と薄黄色の粒。誰かが園芸用の土でも運んだのかと思っていたけれど、足で踏むとパリパリ乾いた音がする。どうも大豆のようで、そういえばこの日は節分。鬼に向かって投げられた豆豆だったようです。

季節の変わり目。少しだけ芽を出している庭の蕗の薹が、いつになったら食べごろかと毎朝楽しみに観察しながらここ数日を過ごしていましたが、いつの間にか駐車場の梅の木は紅い花を開いていた。目の前の春が大きくなるのに気を取られていたら、周りの季節はすっかり前に進んでいるのだとハッとする。

2月4日の今日から春になるらしい。春だけではないのだけれど、季節の変わり目をつげる暦というのは、自分の感覚よりもちょっと早く季節を教えてくれるように感じて、でも周りを見れば確かに移り変わる景色にうなずかされる、そんな説得力があります。自分の視野の狭さに気づかせてくれるといいますか。

昔の人はよく考えたものだと思う。身の回りのことをよく見て、よしこの辺りから春ということにしようと、ただ一日を見極めるというのは、例えば、水平線にじわじわ登る朝日を暗いうちからじっと待つような忍耐強さがないとできないですよね。

昨日までは冬で、今日からは春というのも、いやいや難しいなと思っていたところで「立春」という言葉を改めて見てみる。なるほど「春になる」ではなく「春が立つ」と書く。いきなり春がやってくるのではなく、もともとそこにいらっしゃった春が、立ち上がる日。

季節の変化というのは、リモコンのボタンひとつで画面を切り替えるようなものではなく、じわりじわりと空の色がグラデーションを経ていくような、そんな変化なのだと、立春の言葉を見てあたらめて感じています。

それまでどこかでじっとおやすみしていた春が腰を上げる日なのか。起きてすぐの今時分は、まだ春本番ではないのでしょうけれど、庭の小さな蕗の薹の苦さでもって、少しは目が覚めるのでしょうか。うむ、今夜は天ぷらにしようと決めたぞ。

小杉卓

【今日の作品】

「玉雪開花」

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