芸術家が「想い」だけで勝負してはいけない理由。

 

僕は何かにつけて、「上手い字」よりも「良い字」を書きたいと申し上げてきた。しかしそれは、「自分が下手でもいいと思っている」ということとは違う。
例えばイベントに参加してくださった方が「書道を楽しむ」という姿勢ならば、その短時間で上手くなることを目指すよりも、少しくらい下手でもしっかりと意味のある表現ができた方がいいと思っている。そういう意味では、下手でもいい。

だが、作品を提供したり人前で揮毫するものとして、自分が下手であっていいはずがない。上手くなければならない。それも、他の人よりも少しくらい字が上手いというだけではいけない。ダントツに上手くなければいけないと思っている。

「想い」にはそれ自体に大きな価値がある。

わが子が作った作品は、親にとっては何にも代えがたい価値があるだろう。その技術レベルにかかわらず。自分の子と、よその子の作品を比べて、その価値に優劣をつけることはできない。

でも勝負となれば話は変わる。どちらかが優れていることを、何かしらの基準をもって判断しなければいけない。そこで、「想い」というものは相対的な価値を持つものではないから、勝負を決める基準にはならない。勝負を決するのは、技術だと思っている。

なぜその言葉を選んだのか。
なぜその素材を選んだのか。
なぜその形に表現したのか。
なぜ今それを作ったのか。

「なんとなく」で終わらせることなく、細かい部分まで丁寧に仕上げていく。そこにふさわしいものを選び、表現していく。表現することは世に問うことでもある。前例のない表現をすれば、ときに批判も受ける。細部まで想いを込めていくのが、表現者としての覚悟でもあると思う。

そしてそれが、
どれだけ正確に表現できているか。
どれだけ精密に表現できているか。
どれだけ素材を使いこなしているか。

どれだけ想いがあっても、その想いが「どんな想いか」だけでは勝負できない。勝負の舞台では、その想いが「どう表現されているか」が評価されるべきだ。逆に、どれだけ高い技術を持っていても、そこに想いがなければ人を突き動かすことはできないことは言うまでもない。感心させることくらいはできるかもしれないが。

芸術家、として覚悟を持っている以上は、
それが音楽であれ絵画であれ工芸であれ、もちろん書道であっても、勝負しなければいけない時が必ずある。

社会に訴えかけるには、多くの人に共感してもらえるよう試行錯誤しなければいけないし、自分の目指す表現に行きつくまでは自分との戦いでもある。ひとつのステージとしてコンクールに出場する人は、他の表現者よりも自分が優れているという評価を得なければいけない。

作品の核になるのは「想い」だと思っている。でも、「想い」だけではそもそも勝負できない。勝ち負けをつけるものではないから。

もし勝負しなければいけないとき、「想い」だけにその根拠を持ってはいけない。本当にすぐれた作品には、「想い」がしっかりあることは前提に、正々堂々、自らの技術で周りを納得させる力があるはずだ。