そろそろ僕らは「自分の手段」を手に入れるかもしれない。

 

 

表現と言うと、文章を書くとか、絵を描くとか、楽器を演奏するとか、詩を詠むとか、私であれば当然のことながら書にするわけですが、それは本当に”自分の表現”と言えるでしょうか。

というのは、
明治~昭和にかけて、美術・音楽表現を考えただけでもたくさんの欧米文化が日本に入ってきました。油絵や西洋楽器、その技術を学び、近年は欧米のそれに引けを取らないくらい高いレベルで表現することができるようになってきたとも言えます。しかしながら、欧米の表現の根底にはキリスト教に代表される宗教観がその根底にあることから目を背けることはできません。

 

 

宗教画から派生している絵画や、教会音楽から展開されたクラシック音楽。

その表現手段を、一人の表現者として”自分の表現”として会得できているのかと、疑問を感じる場面は少なくありません。

だからといって、ヨーロッパの美術や音楽家が正しい!というわけでは決してありません。アジアからも素晴らしい音楽家が多く輩出されていることは言うまでもないことです。指揮者の小澤征爾さんは『日本人なりにできる西洋音楽がある』と本の中で書いています。たしかに、たとえ宗教的な背景が100%同じでなくても、その立場なりの向き合い方はあるはずです。

 

 

書道という観点で考えると、これもまた中国からの輸入文化なわけです。

しかし、奈良時代から平安時代にかけて、日本人はそれをほぼ完全に”自分たちの表現手段”にしたと僕は考えています。

 

この時代の書道の流れに少し注目すると、面白いのです。

奈良~平安時代前半、書道は完全に唐の書道文化の模倣/追随でした。日本の政治や思想に大きな影響を与えた、大陸からの仏教。その経典を土台として様々な書が日本にもたらされます。

 

 

 

この時代を代表する書家は、空海(774-835)。

単に”書家”というくくりでは語りつくせないほどの思想家/宗教家だった空海。その神がかり的な書は本家である中国でも人々を驚嘆させました。そして、今残されている空海の書は、徹底された中国の書法をベースに、独自の表現を希求する意志に満ちたものです。しかし、まだこの時点では、日本の書道が生まれたとは言えません。

 

”和様”とよばれる日本独自の書表現が確立したのは平安時代後半になってからです。

 

 

代表的な書家は藤原行成(972-1027)。

それまでは文化の表現手段の一切を中国に習ってきたものが、ようやくこの時代、自分たちの手段を手に入れた。

 

【藤原行成「白氏詩巻」】均整の取れたフォルムと流麗な筆遣いは日本書道史上の傑作

 

書道の表現としては、中国の直線的で硬い筆線から、S字とよばれるような捻った線や強弱が生まれます。また、日本人の言葉をかたちづくる要素として極めて重要な『ひらがな』が生み出されたのもこの時期です。漢字とひらがなの組み合わせは文面にリズムをもたらし、連綿とよばれるいわゆる”つなげ字”表現は文章に流れを作りました。

 

自分たちの文化を自分たちの様式で表現できるまでその手段が成熟した、ともいえるかもしれません。書道だけにとどまらず、この時代、文化が輸入されてから独自の手段として確立するまでおよそ100-200年。

 

100~200年。

 

ある文化が輸入されてから独自の文化として根付くまでの時間のひとつの例として、興味深い時間だと思います。

 

例えば、江戸時代の鎖国が解かれ(崩壊す)るきっかけとなった黒船来航が1853年。

これを機に欧米文化がどんどん流入し、その文化の模倣/追随の時代となった明治~昭和。日本は西洋(戦後はアメリカ)文化の模倣/追随にかけては、あるポイントにおいては本家以上のクオリティを再現できるまでにその文化を突き詰めてきたと言えます。

 

あと数十年で黒船から200年。そろそろ”第2の国風文化”が確立してもよい時代に差し掛かっているとすれば、僕らはとてつもなく面白い時代を生きている。

 

純粋な文化の希求が、借り物の殻を突き破るエネルギーとなってうごめく。

 

外来文化の模倣や、古典で培う素地を、

今度は現代の自分のエネルギーと掛け合わせることができれば、それはもしかすると「自分の手段」になるのかもしれません。

 

小杉 卓

 

 

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