顔真卿の『祭姪文稿』が”草稿”ならば、“本稿”はあったのかどうか調べてみた。

先日の展示会で顔真卿の「祭姪文稿」を観て、ふとある疑問が浮かびました。

 

この作品は『安史の乱で亡くなった顔季明らを追悼する弔文の草稿』ですが、草稿ということは下書きですよね。

ということは本稿・清書のようなものは存在する(あるいは存在した)のでしょうか?

って、みなさん疑問に思いませんか?

 

それとも、本稿・清書のようなものはそもそも存在せず、この原稿をもとに口頭で読み上げられたりしたのでしょうか。

 

疑問としては、

・本稿(清書)が書かれたのかどうか/書かれなかった可能性はあるのか

・(書かれたとすれば)本稿・清書は現存しているのか

ということです。

 

また、もし仮に本稿があったとしても現存する『祭姪文稿』の芸術的価値には特に異論はないことは先に表明しておきます。

 

 

例えば、王羲之が酒宴の席で書いた『蘭亭序』は、

「後日清書しようとしたがどうしてもそれを超えられなかった」というストーリーも含めて、卒意の書としての魅力が語られます(事実がどうかは別として)。

であれば、本稿があることで草稿の意義や価値がより強調して語られるのでは、と思うのです。

 

 

 

ひとまずはGoogleで検索もしてみました。

「祭姪文稿 本稿」で検索してもまったく情報がありません。

 

 

東京国立博物館での展示やテキストの解説でも本稿への言及がまったくなかったのがさらに疑問を深めます(見落としていただけかもしれませんが)。

これだけ有名な作品の本稿がもしあったとすれば、それがなくなった経緯も語られてもおかしくないと思うのですが、、、

 

ということをツイートしてみたところ、手がかりになりそうな文献を教えていただきました!

「唐全文」とは中国・唐五代の文章の総集で、全部で1000巻におよびます。

清朝の1814年(嘉慶19年)に編纂が開始されました。

Web上のデータベースで全文を確認できます。

⇒唐全文データベース:https://ctext.org/wiki.pl?if=en&res=425915&remap=gb

 

祭姪文稿が書かれたのは758年ですから、

1、草稿としての「祭姪文稿」(758年)

2、本稿・清書のようなもの(?)

3、唐全文(1814年~)

という順番で書かれたことになります。

 

だとすると、

顔真卿の「祭姪文稿」と、この「唐全文」に収録されている「祭姪季明文」とを比較し、そこに異なる表記が確認できた場合、その成立順を考慮すれば、そのあいだに”本稿”があったと考えられるのではないか!もちろん、唐全文の編纂者が直接的に異なる表記をした可能性もありますが。

 

さっそく内容を比較してみたところなんと、祭姪文稿と唐全文では2カ所で異なる表記が確認できました。

 

 

①前半部分
夫使(祭姪文稿)⇔大夫使(唐全文)

②後半部分
移牧河關(祭姪文稿)⇔移牧河东(唐全文)

 

このことから、それぞれが編纂された順序を考えれば祭姪文稿と唐全文のあいだに本稿のようなものが存在した、あるいは唐全文の編纂者が直接訂正した可能性があるということが言えると思います。

しかしながら、唐全文についてはそもそもWebの情報が正しいかどうか判断できないため、祭姪文稿との表記の違いについて「確実に異なる」ことを確認するには後日、一次情報としての唐全文を調べる必要がありそうです。

 

 

今のところ調べられたのはここまでです。

 

本稿の存在について言及した文献はまだ確認できていないので、あくまでも「存在したかもしれない」という範囲にとどまります。また、もし本稿があったとすればそれはどこかに現存するのか、あるいは消失してしまったのかその経緯も気になるところです。

引き続きいろいろ調べてみようと思います。

 

小杉 卓

 

 

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