文字を書にするために、美意識という圧力をかける。

“書きつけた”だけの手書き文字は“書”ではない?

 

手書き文字だからと言って、そのすべてが“書”ではないと思っています。

たとえばノートに取った手書き文字。これは書といえるでしょうか。僕は違うと思う。それでは書とそうでないものの違いはどこにあるのか、僕はそのプロセスの中にあると思っています。

ノートの手書きというのは丹精込めて書いたものというよりは、どちらかというと限られた時間の中で一定量の情報を留めておくために”書きつけ”られたものです。

 

この”書きつける”というのは、”書く”とは少しだけ、しかし決定的に違います。

単に書きつけられた文字は、まだ『草稿』の段階なのです。そのあとに清書されたり、パソコンでまとめたりと、そのあとの”何か”になるための”仮の書”なのです。

 

綺麗に書きたいと思った瞬間、自分の中に“美意識”の灯が宿る

 

どこかに署名をしたり、誰かに手紙を書くとき、少しでもきれいな字で書きたい。

この“少しでも綺麗に書きたい”という意思が、文字を“書”たらしめるために必要な美意識です。

 

署名や手紙は、ノートやメモとは違って何かの草稿(仮の書)ではありません。手紙の下書きを書くことはあるかもしれませんが、それは仮の書です。

本番として紙に向かってペンを握る。

『少しでも綺麗に』と思いながら言葉をしたためる。

これが“書く”という行為であり、それによって書かれたものが“書”だと、僕は考えています。

 

考え方によっては、文字は単なる記号にすぎません。

情報(意味)が読み取れさえすれば、文字は記号としての役割を果たすことになります。

しかし、その文字を“少しでも綺麗に”書きたいと感じたその瞬間から、それは単なる記号ではなく“書”になります。その意思こそが一つの美意識なのではないでしょうか。

 

文字を美しいものたらしめるために、美意識という圧力をかける

 

 

美意識という圧力をかけることで綺麗な書は生まれると思う。

どんな美意識をどんな加減でかけるかというのは、知識や経験がものをいうのでしょう。優れたセンスを持っていてもその圧力の加減を間違えてしまえば綺麗な書にはならないし、いい塩梅の圧力をかける技術を持っていてもどんなに美しいものを生み出したいのかというイメージを描けなければ、綺麗な書は生まれない。

 

イメージする“美”という圧力を自分の内側から、

そして、そこに外側からテクニックという圧力をかける。

 

書は、内側と外側との間にできる膜のようなものなのかもしれません。

美しい膜を作っていきたいものです。

 

小杉 卓

 

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