芸術の「敷居」とはなにか

先日、浄瑠璃や日本舞踊、生け花などに携わる方々とお話する機会がありました。

やはりみな古典の重みを感じていると同時に、新しいものへの渇望がある。

その間の本当にぎりぎりのところで、戦っている。

 

「自分の表現」なんて、わずか1%くらいのものだ。

 

文化を広める、を考える

 

敷居を低く、馴染みやすいようにすることも考えなければいけないと同時に、 普段の生活やビジネスの中における芸術は、ある種特別なものであるとも思っています。

より正確にいうと、芸術は特別感を演出できるもの。

 

というのも、 消費者に合わせようとするあまり、当たり障りのない表現に落ち着いてしまって他のブランドに圧倒される。というのは日本の多くのブランドが陥ってしまった流れだと思います。

 

それぞれが培った美意識をもって、 「自分はコレ」という表現を、社会に問いかけていく。

それがカッコいいものであれば社会はついてくる。

結果としてそれが文化になるんじゃないかなと。

 

 

「敷居が高い」とはどういうことか

 

ただ、誰にとってもそれまで自分が経験したことのない文化に、初めて触れるシーンがあります。

 

僕はクラシックとかジャズの演奏(コンサートホールやライブハウス)に時々行くし、美術館にもよく行くけれど、それはきっと自分がやっていることでもあるから、割とすんなり入れます。

 

しかしながら、友人がそれ(クラシック音楽とかアート)をしない理由として「敷居が高そう」というコメントを耳にすることが少なくありません。

 

さて、その敷居が高いとはどういうことを言うのでしょうか。

価格相場がわからない?

服装やマナーがわからない?

どこでやってるかわからない?

 

たとえば、

ジャズを聴きに行きたい!でも行ったことなくてよくわからない!という方に、

お勧め記事。

 

『BLUE GIANT』好き必見! 初心者のためのジャズバー入店マニュアル

 

「敷居が高い」というイメージをこういう記事が上手くフォローしてくれるんですね。

 

ここで「敷居」としてフォローされているポイントは

価格、服装、マナー、お店あたりでしょうか。

 

表現する側としては多くの人に観てほしい聴いてほしいと思っているから、そのあたりの「敷居」というのがどこにあるかを明確にすることで、表現する側も、それを鑑賞する側もアクセスしやすくなるんじゃないかと思っています。

 

はっきりと敷居を設けることも大切

 

ですから、やみくもに敷居をなくそうとするのではなく、「敷居」として感じられているのはどういう部分なのかを明確にすることから始めると、表現する側にとっても新しい観客にアプローチしやすくなるし、鑑賞者側にとっても新しい芸術に触れる機会を設けやすくなるのではないかと思います。

 

そこで、敷居を下げようとすることよりも大切なのは、

どんな敷居をどれくらい設けるのか、を考えることだと思います。

 

表現は、ボランティアではありません(もちろん、場合によってはボランティアのときもあるけれど)。

そこにはクライアントからの需要があり、表現者からの供給がある。しっかりとお互いへのリスペクトを「敷居」という形にすることも、誤解を避けたり、期待値をそろえるためには必要です。

 

自分の表現は「この価格以上の価値がある」、「こんな服装で聴きに来てほしい」、「この会場で展示したい」など、表現する側のこだわりや思想を表すものでもあります。

 

単に敷居をなくせばいいというわけではない。

敷居はある意味で観客と表現者それぞれにとってのフィルターにもなり、その文化をより洗練されたものにしていくと考えています。