古典が証明してくれた大義にしがみついていたいという後ろめたさがある。
一方で、古典というその古臭さから脱したいという渇望がある。
その間の本当にギリギリのところに、作品が生まれるべきすごく深い土壌があると思っている。書道も音楽も。
田中泰延さんがTwitterでこんなことを言っていた。
ライターの仕事はまず「調べる」ことから始める。そして調べた9割を棄て、残った1割を書いた中の1割にやっと「筆者はこう思う」と書く。つまりライターの考えなど全体の1%でよいし、その1%を伝えるためにあとの99%が要る。いきなり思うことを書いて今お金もらってる人、すぐ仕事なくなるよ。
— 田中泰延 (@hironobutnk) August 31, 2016
アート活動も、古典やメソードから搾り取ったところの1割なのかもしれない。
そのなかのさらに1割くらいが、その人にしかできない表現。
書も音楽も、そうだとするとその人の独自性というのは全体の1%くらいのもの。
実際に、書道をしている時間のうち9割は臨書。
1割がようやく創作だ。
しかも創作のほとんどは古典にベースがあって、
自分なりの表現といわれるものは全体のようやく1%くらいだろう。
たったの1%と侮るなかれ。
その1%を深めていくことでしか表現を磨くことはできない。
自分なりの表現を深めたり、大きくしたいなら、
その母数(臨書)を積み重ねる、それが一番わかりやすい。