上手くなると下手なことに気づく。矛盾しているように聞こえるけれど紛れもなく本当のこと。

書道に取り組む中で、かなり粋がったことを書いたりもしているけれど、

書道は日本の文化ではなく、もはや「異文化」と認識した方がいいかもしれない。

技術を高めながらも、やはり面白い表現をしたいと素直に思う。

 

どんな表現が面白いのかと、自分の想像力の乏しさに四苦八苦する毎日だ。

一歩美術館に足を踏み入れれば、そこは美の殿堂。全く歯が立たないと気落ちすることもある。

人間だもの。

 

「上手くなる」というのは分かりやすい突破口

 

真っ白な和紙を目の前に、どんな作品をつくろうかと悩みは尽きない。

そんなお悩みモードの解決策として有効だと感じていることはとてもシンプルに、「上手くなる」ことだ。

 

書道でどんな作品をつくるべきなんだろうとか悩んでいる時間も大切かもしれないけど、時間を持て余しているようならひたすら練習して上手くなるべき。

それまで出来なかったことが出来るようになると、イメージできる範囲がぐっと広がる。

 

臨書で身につくのは技術と「雅(みやび)」

 

書が上手くなるためのわかりやすい方法は、古典を手本にする臨書だ。

臨書の目的は、先人の筆跡から文字の造形美や筆法を学ぶことと、そこに流れている「雅」を身体にしみこませることだと思う。

言葉をきれいに書くっていうのは、カタチが整った字を書くということと、もう少しできるならばその書に「雅」があることが大事。

雅を感じられない書は美しくない。

 

 

例えば音楽でも、素晴らしい技術が駆使された演奏というのが、必ずしも感動的な演奏ではなくて、そこに人の心を惹きつける「色気」のような魅力があって、いい演奏を作るように思う。

それはその音楽に雅があるということだ。

 

 

そして、少しでも自分の技術が高くなったり、雅な表現が身につくと、同じ言葉を書いていても随分違った書きぶりになったり、難しいと思ていたことが、意外と簡単にできるようになる。

そんなちょっとした「自信」の積み重ねで解決できる悩みは多いのではないかと思う。

 

ただ、

上手くなって見える範囲が広がってくると、自分が下手なことにも気づく。

もっともっとうまい人がたくさんいることにも気づく。

 

上手くなると、下手なことに気づく。

矛盾しているように聞こえるけれど紛れもなく本当のこと。

 

悩みは尽きないが、上手くなるよりほか仕方がない。