書道は日本の文化ではなく、もはや「異文化」と認識した方がいいかもしれない。

書道は日本の文化ではなく、もはや「異文化」として認識した方がいいかもしれない。

 

奇をてらったようなタイトルにしてしまったが、書道に取り組んでいる方にも、そうでない方にも読んでいただければと思って、正直に書いた。書道文化を育てていくために。

 

正直なところ、日本で生活していたころから、「これはひどい」という書を目にする機会は少なくなかった。しかし、飲食店にだって美味しいお店がある一方で、そうではないお店もたくさんあるわけだから、書道においてもピンからキリまでその出来栄えには幅があっても仕方ないだろうと、そう考えていた。

曲がりなりにも、書道は日本の文化なのだ。

きっとみんなそう思っている。

小中学校の義務教育で習い、もしかすると近所の書道教室に通っていた人もたくさんいるだろう。

外国人との交流の機会に書道をやったという人もたくさんいるだろう。

これが日本の文化ですよ、と。

 

しかし、「日本文化」という言葉にあぐらをかいている書道の実態に、その文化としての立ち位置はもはや地に落ちたといってもいいと最近は考えるようになった。

 

 

多くの「書」は「カリフォルニアロール」

 

書道に明るくないという方にも、どうしてもこの「もどかしさ」をお伝えしたいから、わかりやすい例を紹介する。

例えば、寿司だ。

日本人のほとんどが、寿司は日本を代表する食文化だという認識に相違はないと思う。

しかし、海外で寿司を食べた経験のある人に聞いてみたい。一部の高級店を除けば、海外で食べられている「寿司」に対して物申したくなる人も多いのではないだろうか。「これは寿司かもしれないけれど、寿司ではない」と。巻物ばかりだったり、アボカドや生ハムが多く使われていたり、酢飯と魚が使われていれば寿司だといわんばかりの海外の寿司屋の実態には、たしかに満足できない部分も多い。

僕もそう思う。

日本のカウンターで握ってもらう寿司は、やはり美味い。

 

しかし、「海外の寿司は寿司にあらず」とも言い切れない。宗教や食材など、地域ごとの食文化の中で生まれたそれぞれの寿司だという考え方も間違いではないだろう。

 

日本の寿司がどうであろうと、海外で食べられている寿司もまた寿司なのだ。しかし、心の中で感じているのは「ほんとの寿司はもっと美味いんだぞ」ということなのだ。正直なところ。

 

 

この感覚が、日本の書道のありようにとても似ている。

にょろにょろと筆線がつながっていたり、景気よく豪快にハネているだけの文字が「立派な書」としてもてはやされる状況は、例えるならカリフォルニアロールが「Oh! Japanese Sushi!」と言われているようなものだ。本当に上手い書というのはそんなものではないのだ、と心の中でつぶやく様は、海外で見る寿司屋を前に感じるものに似ている。

 

「上手い書」を認識できなくなっている

 

問題のひとつは、「上手い書」というのがわからない人が多すぎるのだ。

行書や草書のように線がつながっていればそれが上手い書だと思っている人がたくさんいる、ということは過去にブログでも書いた。

「草書や行書が楷書よりも上手い」という誤解について。

誰が悪いということではない。

学校ではお手本が用意されていて、それそっくりに書かされる。「なぜ上手いのか」ということを教わらないから、何が「上手い書」なのかがわからない。当然のことだ。

 

書道は教養ではなくなった

 

「上手い書」だと分からなくても困ることがなくなったともいえる。

 

代表的な教養として「読み・書き・そろばん」などと言われた時代があった。

それぞれの要素が「消えた」とは思わないが、そのあり方が大きく変わっていることは間違いない。

読み、は今でも大切な教養かもしれない。情報をどう集め、選択し、解釈するかは、むしろネットワークが発展している時代にこそ求められる教養だ。言語だって、日本語だけでなく英語がある程度できることは常識ともいえる。

「そろばん」という道具は全く使われなくなった。しかし、どんなモノがどんなマーケットでどれくらいの価値があるものなのかという数字感覚は、一つの教養といえるだろう。

 

そして「書き」、つまり書道も、そろばんと同じ運命に立たされているといってもいいだろう。教養の道具としての「書道」はその役割を終えたといっていい。

字がうまいに越したことはないが、読めればひとまずOK。たいていの人の感覚はこんなところではないだろうか。誰もそこまで「上手い書(字)」を求めていないのだ。

「書く」スタイルは大きく変わった。

「和紙・硯・筆」から「ノート・ペン」へ。そして、キーボードへ。

スマホやパソコンを使うことで、より早く大量の言葉を綴ることができるようになった今、その言葉をどう発信していくかという力が問われている。

「読み・書き・そろばん」を現代風に言い換えれば「情報リテラシー・発信力・マーケティング感覚」といったところかもしれない。

 

書道をやっている人に問題意識はあるか

 

いわゆる「書道界」というものにも問題はたくさんあると感じる。

4年前に、茂木健一郎氏がTwitterで「公募展には芸術はない」という趣旨の発言をされた。

 

僕は茂木健一郎氏の意見に賛同する。

今の日本の「書道界」が取り組んでいる書道は、規模の大小があるだけで、その団体の内輪の発表会だ。

そこには確かに高い技術がある作品もある。でも何の主張もない。いや、もしかすると「主張」もあるのかもしれない。でも、技術ばかりが先に立ってしまうのだ。そもそも、その団体以外の人にむけた発信は皆無といってもいい。それでは主張にならない。

 

 

レベルの高い文化であるためには、そこに多くの人の情熱がある。その文化に取り組んでいる・いないにかかわらず、だ。

例えば西洋のクラシック音楽文化というのがまさにそれで、演奏者と聴衆とが、お互いに反応し合いながらその掛け合いで一つのコンサートを創り上げていく。

 

 

聴衆は、その音楽の出来がイマイチだと感じたら拍手もしない。一方で、素晴らしい演奏だと感じればスタンディンオベーションだ。

演奏者は、その厳しい聴衆に聴かせるために責任をもって演奏をする。

演奏者にも聴衆にも音楽を創り上げる情熱がある。

こういうことなのだ。

 

その「書」が上手いかどうかがわからない人が無闇に称賛し続けた結果が、でたらめな「書」を生んでしまう。

しかしそれは、内輪の発表会ばかりで、一般の人の厳しい反応を受けてこなかった書道界のツケでもある。

 

書道が文化であるためには、いや、考える順番が違う。

責任をもって「書」を創り出す書家がいて、それに厳しく接してくれる人がいる環境にこそ、書道という文化が出来上がるはずだ。

われわれは書道という文化の在り方を根本的に見直すべき時期に直面しているのではないだろうか。

 

 

書は、どこに向かうべきか

 

皮肉なことかもしれないが、カリフォルニアロールに例えた多くの「書」の中にヒントがあると僕は思っている。

技術レベルはさておき、その作品の中に多くの人を動かす魅力があるということだからだ。

その魅力とは、「言葉の力」と「造形美」にあると考える。

 

そして、「上手い」という裏付けを、作家の責任のもとで保たなくてはいけない。

さらに、表現者であると同時に発信者でなければならない。

 

書道に取り組む人間は、少なくとも、「書道は僕らの文化だ」などというおごった認識は捨てたほうがいい。

 

と、こんなに偉そうなことを言って「お前の書は上手いのか」とご意見をいただきそうだ。

まさに、その意見が書道文化を育てていくために必要なのです。

作品を批判されれば、(その批判が正当なものであれば)僕はしっかり反省しなければいけない。

 

上手く、そして正確であろうとする姿勢が、作品作りにおける作家の責任だから、その力を高めるための古典の臨書は欠かせない。と同時に、書は言葉の力と造形をもってする「主張」なのだ。書をもってその意思を社会に問うていくことが書家の役割だと僕は考える。

 

そうやって、

「創り手」と「受け手」との掛け合いが、結果として書道を文化にし、育てていくのだと思う。