隠居系男子として有名な鳥井さんのブログを読んで、自分の言葉遣いを振り返っている。
今でこそ少しは考えてから言葉を口にするようになったけれど、小学生のころは思いつくままに言葉をしゃべっていたように思う。
中学生のころからだ。
「考えてから話そう」ということを意識し始めた。
道徳的に言えば、人を思いやりましょうとか、対話をする人がどんな気持ちになるかを想像しましょうとか、そういうことだ。
考えすぎて話すタイミングを失ってしまうこともあったし、つい感情的に話し始めてしまうこともあった。今でもよくあることだ。
でも、
自分の話し言葉の中で「ある言葉」は遣わないというささやかなルールを、今に至るまで大切にしている。
死ね。
と
殺す。
この2つの言葉だ。
生き物の死に直面した時や、ニュースに言及するときの単語として遣う場面では話は別だが、
ふざけたり冗談の言い合いをしている場面で、
「おまえ死ねよ!笑」
とか
「殺すぞ!笑」
などという場面に遭遇することが少なくない。
もちろん冗談で言っていることは理解している。
でも僕はこのやりとりが、心の底から嫌いだ。大嫌いだ。
冗談で言っているのだから本心とは関係ないという見解もあるかもしれないが、少なくとも、「しねしね」言っている人間を僕は美しいと思わない。
たぶんそれは、僕の中では越えてはいけない線なのだ。
冗談を作り上げるために遣う言葉だとしても、あまりにも品がない選択だと思うから。
冗談には、冗談なりの品の良さが必要だ。
パッと見たときに、「あの人は素敵だな」と感じる人がいる。
洋服であったり、身のこなしに品があるからだ。
言葉遣いでも、「この人の話す言葉、書く言葉は素敵だな」と感じる人がいる。
言葉の遣い方、選び方に品があるからだ。
言葉を選んで話すということは、目には見えないけれど、想像している以上に実態を伴っているものだと思う。会話をしている相手に与える影響ももちろんあるけれど、同時に、自分の中に積み重なっていくものでもある。
自分はどんな言葉を話してきたのか。
どんな言葉を書いてきたのか。
すべて「事実」として残っている。
仕事で言葉を扱う者として、
一つ一つの言葉のその力に責任を持ちたいし、選んだからには覚悟をもって遣う。
言葉は目に見えないからこそ、お金では解決できない厄介なものだ。
でも、意識次第でその美しさを着飾ることもできるのではないかと思う。
こんな記事も書いています