パリの美術館に通ううちに、絵画の他にみえてきたもの。その文化に生命力はあるか。

パリでの、アートを「浴びる」ような生活を通して。

今日、オルセー美術館に行ってきた。

2018年、最初に訪れた美術館だ。

そういえば去年の年末最後に訪れた美術館はオランジュリー美術館だった。印象派に終わり印象派に始まる、悪くない。

パリでの生活では文字通り「浴びる」ように美術・音楽に触れている。アパルトマンから徒歩圏内にあるルーブル美術館やオルセー美術館は年間パスを買って週に一度くらい訪れている。美術館だけではない。ここパリでは、東京とは比べ物にならないほど手ごろな価格で一流のオーケストラの演奏を聴くことができる。フランスを代表するオーケストラ、パリ管弦楽団の演奏会にも月に2~3回足を運ぶ。

 

 

アートを自分で楽しむこととは別に、見えてきたこと。

 

モネやマネ、ルノワールなどの印象派の絵画、またラヴェルやドビュッシーなどのフランス音楽が大好きな僕にとって、美術館やコンサートホールでアートを味わうのは刺激的な時間だが、それと同時に見えてきたことがある。人々が、アートにどう接しているか、というポイントだ。

 

たとえば、パリで聴くコンサートで好きなことの一つは、観客の反応が生々しいところだ。気に入らない演奏には拍手をしなかったり、素晴らしい演奏には一人でもスタンディングオベーションをしたり、奏者だけでなく観衆と共にコンサートが出来上がっている。一つのコンサートがまるで生き物のように、毎回違う表情を持っている。

 

これに近いことは美術館でも感じられる。展示室で模写している人がいたり、子供たちが床に座って絵を眺めたりしている。ときには美術館の企画で、音楽の絵の前で楽器を演奏している人がいたりもする。絵というものが、単に「見る」だけではなくて自分がどう感じるのかを「観て」いたり、「展示」という一つの企画自体が表現なのだ。

 

 

文化それ自体に、生命力がある。

 

音楽でも絵画でも、表現する人とそれを鑑賞する人との一体感を感じる場面が多い。音楽や美術という文化が生き生きしている。文化それ自体に生命力があるのだ。

正直なところ、日本の美術館やコンサートでこの「文化の生命力」のような感覚を感じたことはほとんどなかった。見る人はあくまでも見る人、聴く人はあくまでも聴く人であり、美術館では物静かに順路をめぐり、コンサートでは半ば形式的な拍手が目立つ。見方によってはそれも「マナー」という一つの文化ではある。しかし、アートの本質は表現と鑑賞であり、そこには少なからず感情の躍動があるものではないだろうか。

 

文化それ自体の生命力とはつまり、それを表現する人や鑑賞する人、われわれ生活者の力に他ならないと思っている。文化があってからの表現や生活なのではなく、我々の表現や生活によってそこに編み出されているものこそが文化だと僕は考える。

 

 

ああ、書道は文化といえるのか。

 

文化と名の付くものは、先人の生活の中で、そして表現と鑑賞の中で少しずつ育まれてきたものだ。

書道は日本の伝統文化だという人がいる。まあそうなのかもしれないけれど、伝統文化だから我々は書を学ぶのか。いや、生活の中で季節の言葉や行事のたびに、長い間そこで書が表現されてきたからこそ結果として書という文化が出来上がっている。だから、「書く」という機会がどんどん減っている現代において書道が文化かと聞かれたら、素直にうなずくことができない歯痒さがある。

 

 

パリで、こと「アート」という文化が華やかなのは、人々の生活の中で美術や音楽が営まれているからではないだろうか。そうやって「アート」という文化が育まれているんだろう。

書道という文化をつくる、などと大それたことは言えない。

しかし、書道に取り組む一人の表現者として、生き生きと言葉を書き続けていきたいと思っているし、書を見てくださる方々には、どんどん反応してほしいと思っている。ここが好き・好きじゃない、感動した・つまらない。どんな反応も、間違いはない。そしてその交流のあるところ、表現と鑑賞の一体感のある所にしか、文化は生まれないし、育たない。

 

 

パリの美術館で感じられるものは絵画だけではない。

絵画も美術館も、さらにはそれを鑑賞する人々までもが、アートという文化なのかもしれないと、最近思っている。