「書く」ことが好きな理由は、考えがカタチになっていくそのスピード感。

村上春樹さんのエッセイ集「やがて哀しき外国語」にこんな一節があります。
「情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。」

こんな窮屈さを感じている方は多いと思います。
パソコンで言葉を打っているとき、僕もこんな感覚になることがあります。これは本当に自分の言葉なのかなと。

手書きのスピード感でものを考える、そういう時間もあっていいと思います。

考えがカタチになっていくスピード感

僕は書くことが好きだ。
筆記具で紙に「書く」という行為自体が好きだ。

ある文章を人に伝えるために表現するにあたっては、話すことと書くことの2つの方法があるが、書くことについてはその手段に選択肢がある。昨今、おそらく一番大量の文章が生産されているのはパソコンのキーボードなどで「打つ」ことによって書かれた文章。スマホなどでの文章のやり取りもある。そして、少しずつその機会が減っているであろう筆記具と紙での手書きだ。

パソコンで「打つ」文章と比べたとき、僕が「書く」ことを好きな理由は、考えがカタチになっていくスピード感にあるように思う。

「書く」場面が違えば手段も違う

考えていることを人に伝える言葉に表現するときに一番早いのはその言葉を「話す」ことですね。そして、たくさんの文面を短時間で作成できるのは、いわずもがな手書きよりもパソコンでの入力でしょう。議事録やインタビューなどの記録についてはたしかにパソコンで書くことが最も効率的だと思う。

ビジネスにはパソコン、スマホが必須というのは間違いありません。ですが、「思考の時間」はスピード優先のビジネスの場面に限りません。エッセイ的な言葉を綴ったり、誰かに手紙・メールを書いたり、言葉を選んでいくような「思考の時間」もあると思います。

僕は何か考え事をしているときに、ノートとペンで書くことが多い。この場合、書くことがあらかじめ決まっているものではないから、考えながら書く。この時のスピード感は、考えるスピードよりも書くスピードが少し遅い。これがちょうどよいように感じる。

パソコンでの入力は、考えるスピードに対してそれが言葉になるスピードがやや早い。だから、じっくり考えたいポイントが見過ごされてしまっているように感じてしまうのかもしれない。

パソコンで言葉を打つことの複雑さ

パソコンで日本語を入力するとき、ずっと前から感じてる違和感がある。思考から画面に言葉が入力されるまでのプロセスの複雑さである。パソコンで言葉を打ち込む場合(ローマ字入力の場合)

1、何かを考える
2、頭の中でそれを言語化する(たぶん漢字かな交じり文)
3、すべてひらがなにする
4、すべてローマ字に変換する
5、キーボードをローマ字で打ち込む
6、漢字やカタカナに変換する
7、エンターキーを押す

というプロセスを猛烈なスピードでこなしながら、私たちは日々パソコンで日本語を打ち込んでいる。これだけの過程をこなしているだけでも、無意識のうちに思考の数%は使っているんじゃないかと思う。

一方で、書くことはごくシンプルだ。

1、何かを考える
2、頭の中でそれを言語化する(たぶん感じかな交じり文)
3、それをそのまま紙に書く

以上。
たぶんこのシンプルさが思考を深めることに直結しているんじゃないかな。でも、その手書きのスピードゆえに考えが先走ることもない。このスピード感が、好きだ。

パソコンでの入力を否定しているわけじゃないですよ。このブログももちろんパソコンで入力しているし。スピード感が大切なシーンもたくさんある。特にビジネスではメールのやり取りとか、一刻も早く企画書を作りたいとか。だから、時と場合によって「書く」ことを使い分けられるといいんですよね。

打ち込みでも手書きでも、自分の中から言葉を選んでかたちにした文章には、間違いなく想いがある。

たぶんこれからは、単に「早い」というだけのことが唯一の価値ではなくなる。旅とか、料理とか、時間をかけることにも大きな価値があるということだ。