反応も何もないところに個性はない。

小学生のころから「個性を磨きましょう」と言われることが多かったゆとり世代だ。でもいまいちピンとこなかった。
個性というものの定義はあれど、それが文字通り各々個々人の才能・特徴であるなら一概に言葉にすることができない難しさがあるから、それを磨くという以前に「個性ってなに」ということになる。

個性というと自分の中にあるものだと考えがちだから、自分の個性を見つけようと自己分析に励む人も少なくない。でも、個性とは「他者との差」なのだから、自分のことにばかり目を向けていても見つかるものではない。

 

個性とは「反応」

自分が表現したり、ほかの人の表現を鑑賞したりする中で自分なりに、「個性」とそれを「磨く」ことがどういうことかが少しずつ言葉になってきた。

一言で言ってしまえば、個性は「反応」であると考える。

個性を磨くというのはこの反応の質を高めることだ。

絵を観たとき、音楽を聴いたときに人は何を感じるか。どんな反応をするか。綺麗だなと感じる人もいれば、なんだがはっきりしない絵だなとか、色遣いが気に入らないなとか、いろいろな反応があるだろう。感情面だけでなく、思わず声を上げたり、涙したり、あるいは眉をしかめる人もいるかもしれない。

この反応こそが、誰にもまねできない自分の個性に他ならない。かりに「綺麗」という同じ言葉で感想を語ったとしても、どの部分をどう綺麗だと思っているのかは絶対に異なる。その差が自分と他者との違いだ。

反応の質を高めることが個性を磨くこと

個性を磨く、というのはつまりこの「反応」の質やレベルを磨くことだ。

感じたことをより鮮明に、より緻密に言葉にすることであったり、あるいは、感じたことにインスパイアされて自分なりの表現に結び付ける人もいると思う。

僕自身、自然に触れたり音楽を聴いたりすることで書の表現を思いつくことも多い。

そこで、作品を書き上げるというのも「反応」の一つだと思う。感じ方をより繊細にしたり表現のレベルを上げること、それは言い換えれば自分の個性を磨くことなのだ。

個性個性と、自分の中にばかりそれを探そうとしても簡単に見つかるものではない。

なにか自分とは別のものに出会って初めて、自分との違いと感じ、それに対する自分の反応にはじめて出会うものだ。

反応も何もないところに個性はない。