音楽は、音が消えると同時になくなってしまうものなのか。

僕は趣味でオーケストラ活動をしている。音楽をしていると「音楽は瞬間の芸術だ」とか「二度と同じ音楽は聴けない」とか、音楽という芸術が「音が消えると同時になくなってしまうもの」といった話を時々聞く。たしかに物理的にはそういったポイントは正しい。

一方で、僕が書道をしていることを知っている音楽友達からは「書道はカタチに残るからいいね」と言われることも多い。書き上げた作品は、モノとして残り続けるから、もちろんその通りだ。

でも音楽だって録音することで音源は残せるし、書道の作品は例えば燃えてしまったらそれこそ同じ作品は二度と再現できない。芸術が、残る・残らないということを物理的な側面以外のことで考えている。

 

ワルシャワ・フィルの「悲愴」

高校生のころ、地元栃木県でワルシャワ・フィルハーモニーのコンサートを聴きに行った。「渾身の演奏」とはこういうものかと、若かりし小杉少年は猛烈に感動した。当時はまったく全然言葉にできなかったけれど、とにかく度肝を抜かれる演奏だったことを今でも覚えている。曲目はチャイコフスキー交響曲第6番《悲愴》。

ポーランドのオーケストラがロシアを代表する作曲家の作品を演奏する心情はいかばかりか。悲痛な歴史があっても、それを超えるのも音楽のちからなのか、と。

オーケストラを始めたばかりだったあのころ、上手いとか下手とかいうことよりもその迫力に圧倒され、ガツンというその感触は「ワルシャワ・フィルの音楽」として今もはっきりしていて、自分の音楽世界の大事な大事な1ページだ。

 

音楽は残らないのか

そこに音楽の妙があるように思う。あのときの演奏は録音されてはいないから今再び聴くことはできない。それでも、「音」以外のかたちをもって確実に残っている。すべての演奏がそうかといえば、(申し訳ないことに)はっきりとは思い出せない演奏会もあるわけで、そのあたりは単純に自分の記憶力の問題か、演奏内容の問題か、色々な巡り会わせだろう。

おこがましい言い方ではあるが、プロのオーケストラの演奏の中にも「ソツない演奏会」はたくさんある。もちろん演奏レベルは一級品だ。音楽を心地よく聴けるが、いまいち印象に残らない。そんな演奏だ。僕は月に数回のコンサートを聴きに行くけれど、猛烈に心動かされる演奏というのは年間2、3回くらいだと思う。でもこの心動かされる演奏に出会うためには、やはりホールで聴く生音でなくてはいけなくて。ゆえに僕はコンサートに行くのだろう。心に残る本に出合うためにはたくさんの本を自分で読むしかない、ということにも似ている。

 

 

書道は残るのか

では、書道の場合はどうか。
カタチとして残っているものは、それはそれとして。みなさんが今までに観たことのある書道作品で、今も心に残っているといったものはありますか?おそらくほとんどの方は、(僕としてはとても残念だけど)きっとないですよね。。。

そう。カタチとして残っている書道作品はたくさんある。火事でもなければ半永久的に残る。でも、思い出にのこっている作品があるという人は、たとえば今も書道を続けている人でも、それほど多くはいないのではないか。

国宝とか重要文化財だとか、それはそれでとても価値のあるものだと思いますもちろん。でも、芸術は人の心に訴えかけるものだ。「あのとき観たあの作品が」というシーンを生み出せるような書道作品をもっともっと作りたい。そう思っている。それが、「残る」という一つの形だと思っているから。

この文章を書いている間に、昔読んだ小説の一説を思い出した。

「人の居場所なんてね、誰かの胸の中にしかないのよ」
(冷静と情熱のあいだRosso、江國香織、より)