本当の天才というのがこの世にはいる。
ちょっと極端な言い方だが、何も考えなくても素晴らしい作品を作り出せてしまう人が、いる。音楽の歴史を顧みれば、モーツァルトはその天才の一人だと思う。天才のその圧倒的な才能の前に、言葉はいらない。頭の中で言語化するよりも早く、直感的に作品を創り出せたのだと思う。
今や誰もが認める超一流アスリートの一人、イチロー選手はしかし、自分が天才であることを否定した。
あるインタビューでイチロー選手はこんなことを言っていた。
「僕は天才ではありません。なぜかというと自分がどうしてヒットを打てるかを説明できるからです。」
逆に言えば、
「天才ならば説明することもなくヒットを打てる」ということだ。
天才は言葉で説明するまでもなくヒットを打てる。しかし自分(イチロー選手)は説明(ヒットを打つにはどうすればいいかという論理)なしにヒットを打っているわけではない。だから、ヒットを打つためにはどうすればいいかを言語化して、実践してきた。
なぜ、説明できることが「天才」であることを否定することになるのかを自分はこう解釈した。
「上手い」ということは説明できるということ
そして僕はこの言葉に、「上手い」ということがどういうことなのかという理屈を見た気がする。イチロー選手はきっと、「上手さ」を究めてきたんだと思う。
「上手い」ということは説明できるということだ。説明できるということは、その「上手さ」をどうすれば再現できるということを知っているということだから。
野球のバッターにとっては、野球が「上手い」とはヒットが打てることだ。
そのために、
どうすればヒットを打つことができるかを知っていて、
そのために自分に何が足りないかを理解していて、
そのために自分が何をしなければいけないことが分かっていて、
実際にそのトレーニングを積んで不足を補い、
実戦でそれを再現することでヒットを打つ。
この一連のことをすべてイチロー選手は行っているわけだ。
すべてを自分の中で「言葉」で整理しながら。
そして、ひとつひとつ、一本一本積み重ねてきた。
美しいものには理由がある
芸術や料理にも通じていると思う。
よく「美しいものには理由がある」というが、
それは、その美しさ・美味しさの理由を言語化できているということに他ならない。その言葉を介して我々はその美しさを理解できるのだろう。優れた芸術家や料理人は、それを理解していて表現・再現できる人のことなのだと思う。そうでなければ、言葉にせずとも表現できる天才だ。
書道でもきっと同じだ。
どういう書が、なぜ「上手い」かを説明できること。
その書をどうすれば書けるのかを説明できること。
それが「字が上手い」ということなのだと考えている。
美しいものに「上手さ」は欠かせないが、しかし人は「上手い」というだけで感動しているわけではない。
単に字が上手ければいいというならパソコンのフォントで十分なわけだ。
書くという行為や、誰がその言葉を書いた(言った)のかということに、自分の琴線に触れるものがきっとある。それは「上手さ」ということではなく、生き方や考え方、姿勢なんだと思う。
イチロー選手の野球に多くの人が感動するのは、彼が「上手い」選手だからという理由ではないはずだ。
ヒットを積み重ねること(記録)ももちろんそうだが、イチロー選手の野球、思想、生き方が多くの人の心の琴線を震わせるのだろう。
今年も彼の活躍を心から楽しみにしている。