餅は餅屋というけれど、パティシエが作る餅もおいしいかもしれない。

日曜日はイースター(復活祭)だった。

はじめて「イースター」という言葉に触れたのは確か、ハリーポッターの本を読んだときだったと記憶している。漠然と、キリストの復活を記念したキリスト教徒のお祭りなんだなとは思っていたけれど、日本にいたころは正直なところ全くなじみがなかった。しかしここ数日、イースターが近づくにつれてパリの街がにぎわっていく様子を感じる今は、それがかなり重要な祭典だということがよくわかる。通りに何件もあるお菓子屋さんが独自の趣向を凝らしたイースターエッグは、通りがかりに観ているだけでもなかなかのものだ。

そしてイースターの週末は多くの教会で、ミサはもちろんのことオルガンの演奏がたくさん催される。昨日はノートルダム大聖堂のオルガン・聖歌を聴きに行った。僕なんぞは観光客のような立場だから、その荘厳な建築や綺麗な音色に感動するわけだが、一方で小さいころから何度も教会に足を運び、オルガンや聖歌を聴くというのはどういうことなのかと考えた。ノートルダム大聖堂という建物も、オルガンや聖歌も、すべてが生活の一部として育つとはどういうことだろう。

パリとは別のところだが、生まれて間もないころから高校までをワルシャワで過ごした友人がいる。ずっとバレエを習っていた彼女は、ワルシャワと東京のバレエ教室の違いに驚いたという。彼女のバレエ教室では専属のピアニストがいて、フレーズやテンポを先生の指導に合わせながら音楽を演奏していたそうだ。しかし、東京で通ったバレエ教室では音楽はすべてテープの音源だったという。

決して優劣をつけようというわけではない。ヨーロッパでもテープの音源を使うバレエ教室はあるかもしれないし、日本にも専属のピアニストがいる教室もあるだろう。でも、その経験から彼女が言っていたことが印象的だった。

「ワルシャワでは、ああやって小さいころから音楽が身体に染みついているんだよね。」

小さいころから身体に染みついているもの、それを自分の文化というのかもしれない。自分のものとして表現できるものは、たとえばパリ管弦楽団のラヴェルやドビュッシーの演奏なんかは、やはり流石だなと感じる部分が大きい。餅は餅屋というか。

しかし一方で、それを自分とは異なる文化として表現できる特権というものもある。
指揮者の小澤征爾さんがこんなことを言っていた。

「僕は東洋人ですけれども、東洋人なりに客観的に西洋の音楽を解釈して演奏できるんですよ。」

「自分の文化」ではないからこそ、客観的な表現ができる。それもまた一つの魅力なのだと思う。餅は餅屋というけれど、もしかすると考えが固執しているところがあるかもしれない。柔軟な発想ができるほかの職人、たとえばパティシエが作る餅がめちゃくちゃおいしいということがあるかもしれない。

自分の文化を表現することも、ほかの文化をどう表現していくかを考えることも、いずれにしても「自分に染みついているもの」が何かを理解することがとても大切のように思う。僕の中にも「身についているもの」があるはずだし、僕の中にある「自分の文化」を最大限に発揮できる表現は、まちがいなく自分の「核」になる。でもそれは、一歩自分の外に出てみないと気付かないものなのかもしれない。周りから見て初めて、その価値に気づくものというのもきっとある。海外旅行に行くと日本の良さがよくわかるというのも、きっとそういうことだ。

そして、表現者としては自分の文化だろうが、異文化だろうがそれを本気で表現するしかない。

餅屋だろうがパティシエだろうが、
和菓子屋だろうがパン屋だろうが、
大切なのはどういう姿勢でモノづくりをするかということ。

本気でぶつからないと、本気の答えは返ってこない。