
昨日は、所属しているオーケストラの練習があった。
練習が始まったのは、雨上がりの初夏の夕方。6時を少し回った頃。都内の会場に向かう道の途中の道路の脇には、雨の雫をたっぷり吸い込んだツツジがまだいくらか咲いていて、その向こうにはやや霞んだ青空がある。これから練習する曲の雰囲気が合うような気がしなくもない。冷たい空気で満たされながら、それでいて遠くの方で確かな炎のようなものが燃えている、そんな音楽。
シベリウスの交響曲第2番。7月のコンサートに向けて、少しずつ練習を重ねている。
オーケストラの中では、必ずしもずっと楽器に口を当てて演奏している時間だけではなく、弦楽器や他の管楽器の響きを聴いている時間も多い。だけど、この“待つ”という行為が、案外悪くない。むしろ、それが僕にはちょうどいいくらいだと思っている。いろいろと想いを巡らせるのに、ちょうどいい時間かもしれない。
1. 違うはずなのに、似ている

音楽と書道というのは、一般的にはほとんど結びつかないもののように思われています。「音楽と書道って、なんだか不思議と似ている気がするんだよね」と言うと、多くの人が少しだけ首をかしげます。「へえ、そうなんですか」と、言外に“でも全然違うものじゃない?”という響きを残しながら。
まあ、確かに違います。音楽は聴くもので、書道は観るもの。ピアノの鍵盤を叩いても墨は飛び出さないし、筆を持っていても音符は出てきません。でも、僕の中ではこの2つは、ずっと前から同じ風景の中に並んで存在していたように思うんです。
ショパンを弾く指先と、古典を臨書する筆先の間には、たしかに共通の空気が流れている。どちらもただ「正しく」なぞるだけでは何かが足りない。そこには、もう少し微妙で、内側から滲み出るようなものが必要なんです。
僕は子どもの頃に少しピアノを習っていた延長で、今でもショパンやドビュッシーをよく弾くし、高校のオーケストラで始めたオーボエも細々と続けています。あくまでも個人的な趣味の範囲ですが、演奏する時間は、自分自身と向き合える静かな時間であり、合奏する音楽の喜びは何物にも変え難いものです。特に、19世紀から20世紀初頭にかけての作曲家たちの音には、感情の揺らぎと静けさが入り混じっていて、書に似た何かを感じることがあります。
2. 書道のこと、音楽のこと
クラシック音楽の演奏では、楽譜に忠実であることが求められます。でも、そこに自分なりの解釈や感情をどう乗せるかが、表現の核になってくる。音符というのは言ってみれば設計図のようなもので、その向こう側には作曲者の想いや、時代背景、人生の節目のようなものが透けて見える気がします。
たとえば、ショパンのノクターンを弾くとき、ただ鍵盤をなぞるだけでは足りません。彼の胸の内に流れていたであろう空気を、自分なりに感じ取って、その場に響かせなければ、曲は生きてこない。

書道でも、同じようなことが起きます。臨書――先人の書を写す練習――は、ただ「形」をなぞることではありません。その人の筆の速度や迷い、息づかいを感じながら、一画一画を辿っていく。
一文字を書くという行為は、それだけで時間の流れそのものなんです。筆をどこに置いて、どこに向かって運び、どんな風に止めるのか。その軌跡には、まぎれもなく「時間」が宿っている。
音楽が時間の芸術であるように、書もまた、時間に生きる芸術だと思います。
3. 書の中のリズム、音の中の静けさ

音楽と書道に向き合う時間の中で、ときどき境界が曖昧になります。ピアノを弾いているときに、手首の角度や重心の置き方が、まるで筆を握っているときのように感じられる瞬間がある。逆に、書を書いているときに、音のリズムが手の動きに影響しているのがわかるときもある。
つまり、どちらも僕にとっては「表現」という共通の地平の上にあるんです。言葉にするのは難しいけれど、音楽と書道は、きっとどこかで静かに握手をしているんだと思います。

それはとてもささやかで、誰かに見せびらかすようなものではないけれど、僕にとっては大事な感覚です。たとえば、風が木の葉を揺らす音を聴いているとき、あるいは、白い紙の上に最初の一画を置くとき。そんな瞬間に、「ああ、音楽と書道は似ている」とふと感じるのです。

音楽には拍子があり、リズムがあります。演奏者の呼吸や気持ちの流れが、そのリズムを変化させていく。書にもまた、呼吸とリズムがあります。たとえば、起筆から送筆、収筆へと続く筆の流れの中に、それは確かに存在する。
音楽を奏でるとき、僕たちは何かを“待つ”瞬間があります。間(ま)をつくること。それは、音を出すことと同じくらい大切な行為です。
書道でも、筆を置く前、筆を上げた後にある沈黙のような時間があります。その“無”の時間にこそ、見る人の感情が投影される。
そんな共通点に気づいたのは、僕が自分の書の活動の中で「音と言葉の間」という舞台を始めた頃でした。2017年のことです。舞台では、音楽家とともに、書と音楽を交互に響かせる時間をつくっています。

たとえば、ピアノが静かに流れるなかで、僕は筆をとります。観客の前で書を書くという行為は、音楽の演奏とよく似ています。失敗も修正もできない。その一回限りの集中が、場の空気を決めていく。
(「音と言葉の間」過去の公演の様子)
4. 墨と音が混じり合う場所
「音と言葉の間」というタイトルは、文字どおり、音と文字の中間にある空白を表しています。書と音楽がそれぞれの形で、その“間”を埋めていく。そこに、観る人や聴く人の解釈が加わって、ようやく作品が完成する。

これは、ただの“書道パフォーマンス”とは違います。音楽をBGMとして流すのではなく、両者がそれぞれの言語で、ひとつの時間を生きるということ。言葉で表現するのは難しいけれど、僕にとってはとても本質的な試みです。
舞台では、詩を書くこともありますし、抽象的な文字の連なりを即興で生み出すこともあります。音楽家の即興演奏と呼応するように、筆が自由に紙の上を舞っていく。
書道というのは、墨の濃淡やかすれ、にじみといった“偶然”を受け入れる芸術です。それは即興性のある音楽と、どこか通じているところがあると思うんです。
5. 書と音の、その先へ

僕が音楽と書道を並べて考えるようになったのは、ごく自然な流れでした。ふたつのものが、まったく違う言語でありながら、同じ感情の核に触れているような気がしてならなかった。
もちろん、音楽の専門家のようには演奏できませんし、書のように深く掘り下げているわけではありません。それでも、音楽に触れることで、書に新しい視点を与えてもらっている実感があります。逆に、筆を動かすときの緊張感や集中が、ピアノの前に座ったときにも役立つことがある。

「音と言葉の間」は、僕にとってそのふたつをつなぐためのささやかな実験場のようなものです。どこまで行けるのかはわからない。でも、表現というのは、いつも“どこまで行けるか”ではなく、“どこまで感じられるか”が大切なのだと思います。
今日もピアノの蓋を開けて、少しだけ鍵盤を鳴らし、静かに墨を磨ってみる。音と書の境界を、そっとなぞるようにして。
小杉 卓