境界をなぞるように

──デザインとアートのあいだで

新しい作品をつくるとき、まずは机に座って静かにノートをひらく。
筆や硯が置かれた机ではあるけれど、すぐに筆を握るわけではない。それは例えば、コーヒーを飲むときに、コーヒーを淹れてすぐさまコップを口に運ぶのではなく、その湯気の上がるのを静かにみている時間のように、自分の中に訪れつつある何かを、そっと待つようなものかもしれません。

これはひとつのプロセスのはじまりです。
目的地はまだはっきりしないけれど、ひとつ確かなことがあるとすれば、それは「言葉の輪郭をかたちづくっていく」ということです。言葉を、というよりも、言葉のかたちを、正確に言えば、その言葉がまとっている〈意味と時間と温度の総体〉を、筆の線によってどうにかして表そうとする営み。

でもこれは、自分の内側から湧き出た何かを作品に昇華させるような、純粋なアートワークとは少し違う。
たとえばロゴや商品名などのデザイン、誰かのビジネスや理念と結びついた「ことば」のかたちをつくるとき。僕が手がけるのは、アートというよりは「デザイン」の領域になる。クライアントの思いや背景を受け取り、それにふさわしいかたちを探っていく。表現は自由だけれど、表現のための自由ではない。

アートとデザインは、遠いようで近く、近いようで別物です。どちらも表現だけれど、役割が異なる。アートは「問いを立てる」ものであり、デザインは「課題を解決する」ものだと、誰かが言っていた。たしかに、僕がデザインとしての書の作品をつくるとき、その感覚はよくわかる。

そんな風に、デザインという枠組みの中で、言葉にかたちを与えていく営みが、書のあり方の一つであってもいいと思っている。


1. 過去を見る──言葉の過去に耳を澄ます

作品づくりは、たいてい辞書の1ページからはじまる。
漢字の字典。字源や語源の本。インターネットに落ちている断片的な資料を探すこともあるし、図鑑や全集でふと開いたページの中に面白い糸口を見つけることもある。

作品として依頼された言葉が、たとえば「猫」だとしたら、それがどんな形をしてきたかを調べる。甲骨文のころにはどう書かれていたのか、金文ではどうだったのか。最初に誰が、どんな気持ちでこの形にしたのか。そのまま何千年も連綿と使われてきたのか、それとも途中で意味が変わってしまったのか。

言葉は、現時点の断面で考えればそれは機能的には記号でしかないかもしれませんが、背景に目を向ければ、それは単なる記号ではありません。それは、人間が生きてきた時間の堆積です。


祈りや、驚きや、悲しみや、あるいは希望が、無数の手を介してその字に込められてきた。だから僕は、書く前に「聴く」。筆ではなく、耳を使って。その言葉がどこから来て、どんな道を歩いてきたのかを、できるだけ丁寧に聞き取ろうとする。


2. 今に立ち帰る──言葉の輪郭を定める

古い話に触れたあとは、必ず「今」に戻ってくる。
言葉は生きものです。時代によって、その温度も印象も変わっていく。

たとえば「結ぶ」という言葉。かつては契約や血縁の意味が色濃くあったけれど、現代では、もっとやわらかく、日常的なニュアンスを持つようになった。「人と人を結ぶ」「縁を結ぶ」──そういう言い回しは、温かい体温を含んでいます。

この段階では、自分の感覚を信じることにしている。
辞書的な意味を超えて、いまこの言葉は、自分やまわりの世界にどう響いているのか。社会の空気や、そこに生きる人々の感情に照らして、その言葉がもつ「今の輪郭」を感じ取る。

デザインである以上、「今」の輪郭を無視することはできません。

どんなに美しくても、時代にフィットしないものは今をいきる人には届かない。だからこの工程は、ある種のマーケティングのようでもあり、でも決して数字では割り切れない、感覚的なバランスが必要だと感じます。


3. 発散する──書いて、書き散らす

言葉の過去と現在を行き来しながら、ようやく筆を握る時間がメインになる。
ここからは理屈ではなく、ひたすらに手を動かすフェーズです。

楷書、行書、草書などのさまざまな書体はもちろん、太筆、細筆。濃墨、淡墨。和紙、麻紙、画仙紙。
とにかくあらゆるスタイルで、何パターンもその言葉を書いてみる。ときには文字として読めないような造形にしてみることもある。

それでもいい。ここでは「読める」より「伝わる」が大事だから。

この過程は地味だし、果てがない。でもこの「発散」の工程がなければ、作品の核には届かない。

デザインとはいえ、いやデザインだからこそ、感覚だけに頼ることはできない。
手を動かし、紙の上にいくつもの「試み」を重ねる。その中に、クライアントの思いや、言葉の本質に近づく線が、必ず混じっている。それを探すために、何本もの線を書く。


4. 再構築する──選び、整え、かたちに近づける

いくつもの線を書いて、その中から数枚を選ぶ。そこからが「再構築」の作業になる。

クライアントが大切にしているコンセプト。僕自身が感じたその言葉の気配。空間や媒体でどう使われるかという実際的な視点。それらすべてをテーブルに並べて、表現としてもっともふさわしいものを絞り込んでいく。

この工程では、アートのように自分の「好き」だけでは決められない。
どれだけ魅力的な線でも、それが伝えたい世界観とずれているなら、潔く却下する。そこには他者の目的があるし、その目的のために自分の手を使っているという意識が必要です。

ここでようやく、「デザインとしての作品」のかたちが見えてくる。言い換えれば、「他者の物語を、自分の手で語る」ような感覚。アートが自分の物語を表す行為だとすれば、これはまた別の美しさがあります。


5. 深化する──呼吸を合わせて、最後のかたちへ

最終段階では、選び抜かれたかたちに改めて向き合いながら、仕上げていく。
ほんのわずかな角度や、墨のにじみ、余白の取り方など、神は細部に宿る。

どこで線を止めるか。どこまで勢いを残すか。静と動のどちらに振るか。

そうしてひとつの作品が立ち上がる。
それは一枚の紙に書かれた線でしかないのに、そこに人の思いや物語、そして小さな祈りのようなものが確かに宿っている。そういう瞬間が、何より嬉しい。


おわりに

アートとデザインは違う。だけど、完全に分かれているわけでもない。
どちらにも、問いがあり、時間があり、手の記憶がある。

どんなデザインであっても、そこには過去と現在、内と外、そのあいだの「境界」が存在するはずで、そこには確かな「意味」が存在している。そしてその意味を、できるだけ丁寧に、誠実に、かたちにしていく。それが僕の仕事であり、僕なりの表現だと思っている。

筆を握るというのは、つまり、他者の声と、自分の感性の交差点に立つことなのだと思う。

小杉 卓

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