僕らはしっている空の飛びかたも

——想像の翼についてのノート

「僕らはしっている空の飛びかたも」——そんな言葉がふと頭に浮かんだのは、風の強い午後だった。作業場の椅子に腰を下ろして、ただ雲を眺めているときに。理由なんてなかった。そういう言葉は、だいたい理由もなくやってくる。ドアをノックするでもなく、そっと部屋の隅に座って、こちらを見ている。

この言葉の「僕ら」は、もちろん僕ひとりのことじゃない。誰かと一緒に見た風景や、交わした言葉や、笑った夜や、名前すら知らない誰かの中に眠る、柔らかな可能性のことを思っている。「僕ら」はとてもひとりではできないことを、きっと、いっしょに成し遂げていくための言葉なんだと思う。

「空を飛ぶ」なんてことは、現実には無茶な話だ。だけど、僕らはそれをイメージすることができる。鳥のように、あるいは夢の中の自分のように、ふわりと地面を離れて、音のない空気のなかを移動する姿を思い描くことができる。

それは現実ではないかもしれないけれど、でも、想像は現実のずっと先を行く。人間が想像できるということは、その想像に向かって歩き出す力があるということだ。そうやって、火を使い、船を作り、星に名前をつけ、飛行機をつくり、月に足跡を残した。全部、最初は誰かの「想像」から始まっている。

だからこの言葉には、小さな確信が込められている。
想像できることは、必ずどこかで実現できる。あるいは、少なくとも、それに向かって歩いていける。たとえ時間がかかっても、道に迷っても、想像という翼を持っている限り、僕らは前に進める。空を飛ぶような気持ちで。

今回の作品では、あえて柔らかく、まるで風にゆれるようなリズムで筆を運んだ。
「しっている」とひらがなにしたのも、確信というよりも、優しい記憶のような響きを残したかったからだ。

この言葉を目にした人が、それぞれの空を思い描いてくれたらうれしい。
自分の中にある「飛びかた」を、そっと思い描いてくれたら、いちばん幸せなことかもしれない。

小杉 卓

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