「自由に書いてください」という難しさ
「自由に書いてください」と言われるときほど、責任の重さを感じることがある。表現において、自由とは決して気楽なものではない。むしろ、それは自分自身に突きつけられる問いのようなものだ。
もし「こう書いてください」と指示されるならば、表現の方向性はある程度決まる。鑑賞者やクライアントが求めるものに応え、それに沿った形で作品を仕上げる。もちろん、そこには制約があるし、表現の幅が狭まることもある。でも、その分、評価の基準は明確だ。「期待通りのものか」「意図が伝わっているか」といったポイントで判断されるし、仮に修正が必要になったとしても、その指針は具体的だ。
ところが「自由に書いてください」と言われると話が違う。そのとき、作品の出来を判断するのは誰か。クライアントではなく、自分自身だ。自分の目で見て、自分の基準で良し悪しを決めなければならない。そして、そこで問題になるのは、自分の美学が試されるということだ。
自由とは、制約と対峙すること
「自由に書いてください」と言われたとき、作り手の中で起こるのは、規律とのせめぎ合いだと思う。もし、完全にルールのない状態で書くとしたら、それはただの衝動の発露になってしまうかもしれない。でも、自由とは衝動のことではない。むしろ、自分の内側にある「こうありたい」という意思と、外側にある「社会的な価値観」「美的規範」などの規律がぶつかるところに、表現が生まれるのではないかと思う。
たとえば、僕は日々、古典の臨書を続けている。それは、一見すると自由とは対極にある行為だ。同じ書を何度もなぞり、筆の運びや文字のバランスを身体に刻み込む。個性を出すのではなく、過去の書を忠実に再現することを求められる。けれど、そうした積み重ねの中で、自由の意味が見えてくる気がする。
何かを表現するとき、まったく何もないところから生み出すことは難しい。むしろ、自分の中に確固たる土台があってこそ、その土台と対話しながら新しいものを生み出すことができる。自由とは、無秩序のことではなく、自分が築き上げてきたものの上に成り立つものなのだ。
見えない期待を超えること
「自由に書いてください」と言われるとき、そこには見えない期待があると思う。クライアントや鑑賞者は、何も指示しない代わりに、どこかで「自分の想像を超える何か」を求めている。それは、明文化されたルールのない審査のようなものだ。
でも、自由に委ねられたからといって、どんな作品でも受け入れられるわけではない。もしクライアントが「これはちょっと……」と感じても、一度「自由に」と言ってしまった手前、はっきりとした評価を下しにくいだろう。だからこそ、作り手は自分自身に厳しくなければならない。
ここで怖いのは、自分の都合の良い解釈をしてしまうことだ。自分が「良い」と思ったものが、本当に良いのか。もしかすると、それは単に自分が楽な方向へ逃げただけではないか。そういう問いを、常に持ち続ける必要がある。
自由とは、自分を試すこと
だからこそ、自由に表現することは、自分自身と向き合う作業になる。それは、気楽なものではない。むしろ、厳しさが伴うものだ。でも、その厳しさを受け入れることで、自由の本質に近づけるのかもしれない。
書を書き終えたあと、僕はしばらく作品を眺める。そして、自分に問う。「これは、本当に自分が書くべきものだったか?」と。自由に書いたからこそ、その問いに正直でなければならない。
自由とは、選択肢を無限に与えられることではない。自分自身で、何を選び、何を削ぎ落とすかを決めること。そうして、はじめて「自由に書いてください」という言葉に、真正面から向き合うことができるのだと思う。
小杉 卓
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