言葉の重力、あるいは「美しいとおもう」の揺らぎについて

冬の終わりの、まだ光が硬い朝。

窓から差し込む冷たい陽光は、部屋に積もった目に見えない埃をひとつひとつ浮き上がらせます。

ピアノの蓋を開け、開かれたままのドビュッシーの楽譜に目を落とす時、そこには音のない音がすでに満ちています。空気は微かに震え、壁の奥では建物の骨組みが小さなため息をつく。

僕たちが日常的に使う「言葉」も、同じではないかと思っています。

それは決して固定された記号ではなく、常に形を変え、温度を持ち、かすかに震え続けているのです。


ひとつの実験的な映像作品を作りました。

白い紙に、ただ「美しいとおもう」という一文を繰り返し書いたのです。100枚くらい。

その100枚の「美しいとおもう」を、10秒ほどの短い映像の中でつなげていく作品です。

映像が回り始めると、そこには奇妙な光景が立ち上がりました。

同じ人間が、同じ道具を使い、同じフレーズを書いているというのに、そこには驚くほどの差異が生まれます。

ある文字は力強く、ある文字は消え入りそうなほどに繊細で、またある文字はどこか遠くを眺めているような顔をしています。

それらは重なり合い、残像となり、まるで言葉が生き物であるかのように蠢(うごめ)いています。

そこに僕が込めたかったのは、言葉の持つ「揺らぎ」そのものでした。


100通りの「美しい」という仮面

僕たちは普段、活字やデジタルデバイスのフォントを通じて言葉をやり取りしています。

そこにある「あ」という文字は、誰が読んでも、いつ読んでも、寸分違わぬ「あ」です。それは効率的ですし、間違いも少ないでしょう。

でも、僕たちの内側にある感情は、そんなに画一的なものなのでしょうか?

ドビュッシーの旋律が譜面通りであっても弾くたびに色彩を変えるように、「美しいとおもう」と口にする時の僕たちの心もまた、決して一定ではありません。 夕暮れ時の街路樹を見てふと思う時と、愛する人の横顔を見て思う時では、言葉の輪郭は決定的に異なっているはずです。

僕が書いた100枚の紙は、その一瞬一瞬の感情の記録です。

一人の人間が書くたった一行のテキストでさえ、これだけの表現の幅を持ってしまう。言葉は実に多くの顔を持っていて、そこに「揺らぎ」が生まれることは、むしろきわめて自然なことのように思えるのです。

むしろ、揺らがない言葉の方が、どこか不自然で、嘘を吐いているような気さえしてきます。


今年の目標:動的な「書のフォント」を作る

この作品を経て、僕の中にひとつの具体的な目標が芽生えました。

「文章全体のニュアンスを読み取り、その感情の揺らぎをリアルタイムで反映する、動的な『書のフォント』を作ること」

それは、静止したデザインとしてのフォントではありません。 入力されたテキストの前後関係や、そこに込められた熱量をアルゴリズムが判断し、文字の太さや掠れ、傾きを刻一刻と変化させていく。

あたかも、その文章が今まさに、誰かの手によって書き付けられているかのように。

もしそんなフォントが実現すれば、僕たちのデジタルなコミュニケーションは、もっと血の通った、温かみのある(あるいは冷徹な)ものに変わるかもしれません。

それは単なる効率化とは真逆のベクトルにある、言葉の豊かさを取り戻すための試みです。


「美しい」の主権を取り戻す

そもそも、なぜ僕は「美しいとおもう」という言葉を選んだのでしょうか。 そこには、僕なりのささやかな哲学があります。

僕たちは時々、何かが「美しい」理由を、自分以外の場所に求めてしまいます。

それが有名な誰かの作品だから。
歴史的な価値があるから。
SNSで多くの「いいね」を集めているから。。。

でも、それは本末転倒です。

目の前にあるものが美しい理由は、誰かがそれを美しいと言ったからではありません。 あなたが、それを「美しいとおもった」からです。

その瞬間に生まれる主観的な感動こそが、すべての始まりであるべきです。 100枚の異なる「美しいとおおもう」は、その数だけ存在する「個人の真実」の証明でもあります。

僕が目指しているのは、その「個人の真実」が持つ微かな震えを、テクノロジーと書という表現の融合によって、もう一度すくい上げることです。たとえそれが、10秒間の映像の中に消えてしまうような、儚い残像であったとしても。

小杉 卓

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