この場所を、いい場所にしたい。

先日、経済産業省に勤める方とじっくりと言葉を交わす機会があった。

話のなかで、その方がふと漏らした一言が、僕の心の静かな場所にすとんと落ちて、そのまま居座り続けている。

「日本というこの場所を、いい場所にしたいんです」

その方は、そう言った。

考えてみれば、僕らは一箇所の場所に100パーセントの自分を委ねて生きているわけではない。人は誰しも、自分の人生をいくつかの断片に切り分け、それを異なる場所に預けて生きている。

例えば僕の場合、生活のベースは鎌倉にあるけれど、あるときは生まれ故郷の栃木に意識の数パーセントを置き、またあるときは、かつて過ごしたパリの石畳の感触をどこかで思い出しながら筆を握っている。

「その人にとっての何パーセントかを占める場所の一つである『日本』を、より心地よい場所に整えていく。それが僕の仕事なんです」その方は、まるで古いレコードの埃を丁寧に払うような手つきで言葉を続けた。

「この国」という言い方をしてしまうと、そこにはどうしても「国籍」という名の目に見えない高い壁が立ち上がってしまう。

でも「日本という場所」と呼び替えるなら、話は別だ。そこにはこの国に暮らす人々はもちろん、ふらりと訪れた旅人までもが、同じ空気を吸う存在として等しく含まれることになる。

そんなふうに「場所」を捉え、それをより良くしていこうとする姿勢は、僕の目にはとても誠実で、風通しの良いものに映った。

僕はしばらくの間、その余韻に浸りながら、自分と書道との関係について考えを巡らせていた。

僕もまた、物事に対してそれくらいフラットな視線を持って向き合いたいと切に願うからだ。「いい書道がしたい」 そう口にした瞬間、そこには『書道』という名の境界線が引かれる。 筆を使い、墨を磨り、和紙に向かう。いわゆる伝統的なルールや共通認識というやつだ。

それは地図のような役割を果たしてくれるけれど、同時に、書道の知識を持たない人々や、そこに強い関心を抱いていない人々を、表現の輪の外側へとはじき出してしまう危うさを孕んでいる。

僕にとって、書道とは何よりもまず「言葉」だ。

それは僕がずっと自分自身に言い聞かせてきたことでもある。

どれだけ誠実に、その言葉を立ち上げることができるか。 どれだけ豊かに、その言葉の響きを誰かの心に届けることができるか。筆や墨や紙といった道具は、あくまでそのための、一つのささやかな手段に過ぎない。ピアノを弾くことが音楽を奏でるための、数ある方法の一つであるのと同じように。

もし明日、筆がこの世から消えてしまったとしても、僕が「言葉」を表現しようとする限り、僕の書道は終わらないだろう。

「この言葉を、より良い言葉にしたい」

そんなシンプルな、けれど切実な思いを抱えて、僕はまた明日から書に向き合うことになるだろう。 そんなことを改めて考えた、冬の夜のことだった。

小杉 卓

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