テーブルの上の、新しい作法
先日、大学院で心理学の研究をしていた友人と話す機会があった。とても静かな秋晴れの午後で、僕たちは明るいカフェのボックス席で、静かな、でもはっきりとした声で話し続けた。話題は学習のメカニズム、それも紙とペン、そしてタブレットという、今の時代にはあまりに日常的な道具に関わる、少しばかり奇妙なねじれについてだった。

彼女によれば、彼女自身は紙とペンで学習した方が、単語を覚えたりする際に、どうにも習熟が早いように感じるのだという。それは僕自身も理解できる感覚だ。けれど、彼女が交流を持っている現代の子どもたちの間では、その流れが逆転しているらしい。紙とペンを扱うよりも、タブレットの上で指を滑らせる方が、ごく自然に学習へと繋がっている、というのだ。
彼女は言った。「統計データではありません。あくまで、私が目撃している小さな世界のスケッチに過ぎません」と。しかし、そのスケッチは、僕がこれまで積み上げてきた世界の見え方を、少しだけ揺さぶるには十分すぎるほどの示唆に富んでいた。まるで、見慣れた壁に、いつの間にか新しいドアが取り付けられていたようなものだ。そして、僕だけが、そのドアの存在に気づいていなかった。
僕の「書」と、デバイスの持つ冷たい速さ

僕自身は、書道を続けているものだから、言葉を紙の上に墨で、あるいはペンで、物理的に書きつける行為の方が、パソコンやスマートフォンの冷んやりした画面に向かって文字を打ち込む行為よりも、はるかに自然で、肉体的な延長のように感じられる。
だが、それは単に、僕の幼少期の学習環境が、たまたま紙とペン中心だったという、取るに足らない時間的偶然の結果に過ぎないのかもしれない。
現代の子どもたちにとって、タブレットやスマホのガラスの上で指を動かすことこそが、文字を「書く」という行為の、もっとも自然な定型なのだろう。僕たちが当たり前のように受け入れてきた「紙にペンで」という作法は、彼らにとっては、過ぎ去った文化体験、ある種の考古学的な儀式に近いものになっている可能性だってある。
キーボードの上を走る思考の迷路
ここで、僕の頭にいつも引っかかっている、ある不協和音について考えてみる。それは、紙にペンで「書く」ことと、パソコンで文字を「入力する」ことの、根本的なプロセスの違いだ。

パソコンで日本語を入力する場合、僕たちの思考は、ごく短時間のうちに、複雑な迷路を通り抜けなければならない。
言葉を頭に思い浮かべる。
発音に変換する。
それをローマ字へと置き換える。
キーボードの上で、そのアルファベットの並びを指で探り当てる。
キーを叩く。
変換ボタンを押す。
変換候補の言葉の中から正しい言葉を選び取る。
そうしてやっとその言葉を確定することで、文字は画面に表出する。
この一連のプロセスは、まるで、複雑なコードを高速で解読するセッションだ。驚くべき慣れによって、僕たちはこれを、まるで息をするように処理し、紙にペンで書くよりもずっと速く文章を生成できる。そのスピードは、切ないほどに冷徹だ。

一方、ペンと紙の場合は極めてシンプルだ。
言葉を頭に思い浮かべる。
その文字の形を思い描き、ペンを動かす。
この、極めてシンプルな二つのステップが、キーボード操作の持つあの煩雑な迷路と対比されるとき、僕は日本語のタイピングの「非効率さ」に、どこかやりきれないほどの諦念を覚える。しかし、それでもなお、キーボードのほうが速いという事実は、何を物語っているのだろう?
僕は、この二つの行為が、僕たちの脳内の地図の異なる部位を使っているのではないか、と漠然と考えている。ペンで書く行為が、より直接的に言語の「形」と「運動」に結びついているとすれば、タイピングは、発音、論理、そしてパターンの認識という、より抽象的なルートを経由しているのかもしれない。この謎めいた違いを、いつか研究してみたいものだ。
「自然な行為」のパラドックス
タブレットやスマホでのフリック入力は、パソコンのキーボードとはまた異なる操作形態だ。しかし、それもまた、紙にペンで直接文字を書くという、あの皮膚感覚的な行為とは大きく隔たっている。そして、現代の子どもたちにとっては、その隔たりの向こう側にある操作こそが、「書く」という行為の新しいスタンダードであり、最も自然な形態であるらしい。

これまで、僕は無意識のうちに、紙に言葉を書くことが、あたかも人間という種の絶対的な自然な行為であるかのように、傲慢に考えていたのかもしれない。その驕りを、秋の陽にやさしく包まれる街を眺めながら、静かに反省した。
現代の子どもたちにとって、僕たちがかつて当然としてきた「紙とペン」は、もしかすると、僕たちが考えている以上に、ある意味では「不自然なもの」になっているのではないか。もしそうであるなら、僕たちは、その新しい前提に立って、彼らの学習やコミュニケーションの形と向き合う必要があるだろう。
夜の底で、Mac Book の鮮やかで冷たい光が、新しい言葉の風景を静かに照らし出している。
小杉 卓