手話と書、その交差点

1. 流れるもの、定着するもの

ここ数日、手話に触れる機会が多い。
それはまるで、静かな池の底で、透明な魚たちが音もなく行き交うのを見ているような感覚だ。彼らの手の動き、その軌跡、表情のわずかな翳り──それが、私たちの耳で聞く言語と同じだけの、あるいはそれ以上の情報と感情を運んでいる。

ふと、思ったのだ。
一つの言葉、一つの手の形、一つの感情の流れを、紙の上に定着させることはできないものだろうか、と。

私たちは日常的に、見えない思考を文字という静的な記号に変換する。だが、手話はそうじゃない。それは空間的、時間的に流れ、次の瞬間にはもう過去のものとなってしまう、まさに動きそのものだ。刹那的な、水面に描かれた紋様のような言語だ。

2. 静止した線と、込められた精神

「ありがとう」

その流れる動きを、私たちは書道という媒体で迎え入れることができるだろうか。

いくつかの試作を重ねてみた。筆を持ち、墨をすり、目の前でなされた手の動きを、静止した「線」として捉える。書道が文字に書き手の精神や、その日の体調、抱える孤独や喜びをそっくりそのまま封じ込めるように、手話の動きにもまた、話し手のありのままの感情が込められている。

それは、まるでコーヒーを淹れるときの湯気のようなものだ。誰もが同じ豆を挽き、同じ湯の温度を使ったとしても、その日の気分や手のわずかな動きで、味と香りが変わってしまう。手話も同じだろう。

この手の動きを、書の筆致墨の濃淡、そして線の勢いかすれという、あの静的で視覚的な表現に置き換える。それは、過ぎ去った時間に、一種のモニュメントを築くような行為かもしれない。

3. 詩的な残像を追って

手話の空間的な表現や、複数の動作で構成されるその構造は、ときに驚くほど詩的で象徴的な側面を持っていると感じる。それは、夕暮れの空気の中にただよう、名前のないメロディのようなものだ。

「海」

手の動きが、意味を超えて、ある種の美的な残像を鑑賞者の心に残す。この詩情を、書の造形、つまりは余白と実体のバランス、線の緊張感と解放感とを組み合わせることで、紙の上で再現することは可能だろうか。

それは、私たちが普段、言語に対して持っている認識を、少しだけ横にずらしてみるということなのかもしれない。

手話も、文字と同じように、言語の美的表現としての地位を確立できるのだろうか。この問いは、私の頭の中で、まるで遠い異国のラジオから流れるジャズのように、小さく、しかし確実に鳴り響き続けている。

「山は美しい」

試作はまだ始まったばかりだ。しかし、この挑戦は、流れる時間の中で見過ごされがちな、言葉の奥に潜む感情の襞を、静かにすくい上げる作業であるような気がしている。そしてその作業は、アトリエの窓から見える冬の雲のように、どこか静かで、深い意味を湛えている。

小杉 卓

こんな記事も書いています