目にはさやかに見えねども

この作品は赤ワインと墨で書きました。食欲の秋と芸術の秋を、一枚に。

昨日は中秋の名月。すっかり秋の空気に満ち満ちておりますが、この季節にいつも思い出すのが、平安時代の書家・歌人であった藤原敏行が詠んだこの歌。

秋きぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞ驚かれぬる
(古今和歌集、秋歌上、169)

この歌を現代語訳すると、「秋が来たということは、はっきりと目に見えないが、
吹く風の音に、はっ、と秋が訪れていることに気付くのだ」といった意味になります。

この歌には特に技巧的な表現はみられませんが、それでも現代にまで読み伝えられている所以は、その感覚表現にあるといえます。私たち人間にとって最も多くの情報が入ってくるといわれる視覚。その視覚では感じられないものを、藤原敏行は聴覚によってとらえることを歌に詠み込みました。それも、本来「音」というような音を感じることのない「風」という現象に対して。

というのが、この歌の一般的な解釈です。
しかし、この歌になんとも淋しい恋の様相を感じるのは私だけでしょうか。

秋(あき)という言葉は、その音から「飽き」の掛詞として多用されます。そして風が伝えてくれるといえば、「風の便り」という言葉があることは皆さんもご存じではないでしょうか。「風の便り」は古語においては「ふとした折に」という意味でも使われていました。「風の音」を「風の便り」のことだと解するなら、こんな解釈ができるのではないでしょうか。

(この夏、燃えるように恋い焦がれたあの人に)飽きてしまったということには、はっきりとは気付かない(気付きたくない)。秋風に吹かれ、ふとした折に、(その人への思いがすっかり冷めてしまっているという)自分の気持ちに気付いてしまい、驚きを隠せないのだよ。

ふとしたことをきっかけに、はっ、と気づくもの。
どこの国でも、どの時代でも、季節も恋も、始まりも終わりも、そんなものです。そっと耳を澄ませば、いつもとは違う音がその風の中に聞こえるかもしれない、そんな季節が日本の秋。藤原敏行が秋風の中に聴いたのは、自身の心の音だったのかもしれません。