僕が学生時代、大学のオーケストラでオーボエを吹いていた頃の話だ。
練習の合間に、指導に当たってくれていた先生がふと漏らした言葉がある。それは技術的なアドバイスというよりは、もっと形而上学的な、僕の人生の根源に触れるような響きを持っていた。

「小杉君。今はね、穴が空いていてもいいから、とにかく美しくて大きな器をつくるんだよ」
その当時の僕が吹くオーボエの音色は、おそらくどこか小さくまとまろうとしていたのだろう。失敗を恐れ、楽譜に書かれた指示をただ忠実に守ることに必死だった僕に、先生は「表現の本質」というものを突きつけたのだ。

設計図通りの器が並ぶ風景
今の世の中を見渡してみると、僕らはいつの間にか、穴の空いていない、完璧に使い勝手の良い「器」を作ることばかりに習熟してしまったように見える。
それは頑丈で、見た目もそれなりに綺麗で、何より壊れにくい。どこに出しても恥ずかしくない、規格通りの美しさ。多くの人が、その器の使い道すらも、作る前からあらかじめ決めてしまっている。まるで見えない誰かが書いた精密な設計図を、一寸の狂いもなくトレースしているかのように。
「こんな器を作りなさい」
「はい、わかりました」
そんな静かな、けれど逃れがたい合意形成が、僕らの社会を薄い膜のように包み込んでいる。

使い勝手が悪いものは排除され、少しでも水が漏れようものなら「不良品」のレッテルを貼られる。
でも、そんなふうにして作られた均質な器が並ぶ光景を眺めていると、僕はときどき、ひどく息苦しい気分になることがある。それは、まるで無機質なメトロノームの音に、無理やり心拍数を合わせられているときに似た違和感だ。
先生が言いたかったのは、おそらくこういうことだ。
欠点や欠落(つまりは穴だ)を恐れて、表現のスケールを矮小化してはいけない。 穴なんていうものは、後からいくらでも埋めることができる。
良質な粘土を付け足してもいいし、あるいはその穴自体を一つの「景色」として受け入れてしまうことだってできる。
大事なのは、その器が、自分にとってどれほど美しく、どれほど広大な可能性を持っているか、ということだ。
使い勝手なんていう実利的な話は、もっとずっと先の話でいい。まずは、自分がその中にすっぽりと入ってしまえるくらいの、大きな意志の形を作り上げること。それが表現の本質であるはずだ。

楽譜を読むこと、古典を写すこと
あの文章を書いてから、十数年の月日が流れた。 僕は今も大学のOBオーケストラで楽器を吹き続け、そして日々の仕事として筆を執り、書の古典を「臨書」している。
楽譜を読み解くことと、数百年前に書かれた古典の筆跡をなぞることは、僕の中で驚くほど似た行為として繋がっている。 目の前にあるのは、バッハが書き残した音符であったり、王羲之が残した墨跡であったりする。そこには確固たる「正解」のような顔をして鎮座する歴史がある。

しかし、僕らがそれらに向き合う意味は、果たして「正確に再現すること」だけにあるのだろうか。
音符をその通りの高さと長さで鳴らすこと。古典の字形を完璧に模写すること。それは確かに一つの「誠実な技術」ではあるけれど、それだけではただ「小さくまとまった、間違いのない器」を作っているに過ぎない。
数百年という時間を超えて僕らの手元に届いたそれらは、ある種の「問い」なのだと僕は思う。 当時の人々が何を渇望し、何に絶望し、どのような光景を見てその一画を、その一音を刻んだのか。それを今の時代の鏡に照らし合わせ、自分というフィルターを通して再び世に放つこと。そこにこそ、僕たちが今、わざわざ古い楽譜を開き、古い墨跡を広げる意味がある。

時代という鏡に照らして
かつての巨匠たちが作った「器」は、おそらく当時はとてつもなく巨大で、そして幾多の穴が空いていたはずだ。彼らは完璧な設計図に従ったのではなく、自らの内側から溢れ出す、制御不能なエネルギーを形にしようとした。
それを現代の僕たちが受け取るとき、単に「骨董品」として綺麗に磨くだけでは足りない。
彼らの表現を、現代という複雑で、ときに不透明な時代に問い直すこと。 「今、この瞬間に僕がこの音を鳴らす意味は何だろうか」 「今、この場所にこの文字を書くことで、誰の心に何が届くのだろうか」 そうやって考えるプロセスこそが、過去と現在を繋ぐ一本の細い、けれど強靭な糸になる。
僕はときどきアトリエで、千年前の文字をなぞりながら、自分自身に問いかける。
「お前は、この文字の中に自分の呼吸を混ぜているか?」と。 正確さという名の小さな器の中に逃げ込んで、自分自身の声を殺していないか、と。
十数年を経て、再び「大きな器」へ
正直に言えば、今の僕は、必ずしも「大きな器」を作ることだけが正解だとは思っていない。歳を重ねるということは、ある意味では「自分の器の適正なサイズ」を知っていくプロセスでもあるからだ。
けれど、ふとした瞬間に、あの頃の自分が書いた言葉が僕の襟首を掴むことがある。 「年齢を理由に、小さくまとまってはいけないんじゃないか?」と。
経験を積み、自分の限界が見えてくると、人はどうしても「効率の良い器」を作ろうとしてしまう。穴を空けないように、無駄な体力を消耗しないように、スマートに。 でも、そんなふうに無難な選択を繰り返していくうちに、僕らの魂はいつの間にか、乾燥して縮んでしまうのではないだろうか。

出来上がってもいない自分の器の使い道を、自分で勝手に決めてしまわないこと。
「自分はこの程度だ」という見積もりを、一度綺麗に捨て去ること。
たとえ水が漏れたとしても、その漏れた水が描く模様さえも愛せるような、そんな大らかな「器」を僕は作り続けたい。
過去から届いた楽譜や古典を前にして、僕は深呼吸をする。
そこにはかつて先生が僕にくれたあの言葉が静かに鳴り響いている。
「もっと大きく、もっと美しい器をつくるんだよ」
その声を繰り返しながら、僕は再び楽器ケースを開ける。そして筆を執る。
穴の空いた器をつくるために。
小杉 卓