フランスに滞在していた数年前の4月上旬のこと。日本の桜をネットで羨ましく眺めながら、海辺の街・カンカルに向かった。そのとき書き残したテキストがあったので、若さゆえの少しの恥ずかしさを感じつつ、改めて文章を起こしてみる。

牡蠣の街、カンカルにて
いま、カンカルという街にいる。イギリス海峡に面した小さな港町で、パリからバスを乗り継いで7時間ほど。フランスでは牡蠣の養殖で知られていて、かのナポレオンもここの牡蠣を取り寄せていたという。

フランスでは牡蠣が国民的な食材だ。日本でいうマグロのような存在だろうか。海鮮的視点からはお世辞にも褒められないパリのレストランにも、牡蠣は欠かさずメニューに並んでいる。しかし意外なことに、現在フランスで食べられている牡蠣の90%は、日本の牡蠣をルーツに持つものだという。
1970年代、フランスの牡蠣養殖業は寄生虫や冷害によって壊滅的な被害を受けた。そこで日本の牡蠣が輸入され、今のフランスの牡蠣産業を支えることになったのだ。さらに時を経て、東日本大震災で被害を受けた三陸の牡蠣養殖業者に、今度はフランスから養殖用の稚貝や設備が送られたという。
こうした歴史のつながりを知ると、僕が今カンカルの港で食べている牡蠣の味も、単なる「おいしい」以上のものに感じられてくる。
「行き方」を調べる旅は、どこにも行き着けない

さて、そんなカンカルの街で牡蠣を頬張りながら考えている。
僕はこの旅でどこに行き着けるのか。
最終的な目的地はパリだ。数日後にはパリに戻る。パリを出発し、いくつかの町を巡り、またパリに帰る。いくら時間とお金をかけたところで、物理的な意味では僕はどこにも行っていない。旅の「行き方」を調べ、その通りに進むだけでは、地理的な移動を繰り返しているに過ぎない。
でも、旅をすると人は成長すると言う。言葉の通じない場所で注文を試みたり、迷った末にたどり着いた景色に感動したり。けれど、スマホがあれば言葉は翻訳できるし、迷うことなく最短ルートで目的地に着ける。そうして「行き方」を調べる旅では、結局のところ場所にしかたどり着けない。
旅を通して人が変わるのは、新しい「行き方」を知るからではない。それは新しい「生き方」を考えるからだ。

旅で得るものは「生き方」
旅をして得られるものは、風景や食事だけではない。その街の空気、人々の表情、通りを歩くリズム、カフェでの何気ない会話。それらを感じながら、自分がこの場所でどう生きるかを考えること。それこそが旅の本質なのではないかと思う。
たとえば、カンカルの港で牡蠣を食べながら、僕はこの牡蠣の背景にある歴史や、人々の営みについて思いを馳せる。それを育てた漁師はどんな暮らしをしているのか。海の状態が変われば、彼らの生活はどうなるのか。そんなことを考えていると、「牡蠣を食べる」という行為が、単なる食事以上のものに思えてくる。
ただ食べるのではなく、味わう。ただ見るのではなく、感じる。ただ行くのではなく、考える。
その旅のモチベーションは何なのか。 その食べ物はどんな想いで作られているのか。 そこに住む人たちはどんな表情をしているのか。 出会った人とどんな想いを共有したか。
この答えは、スマホでは調べられない。
「行き方」を知るだけでは、人はどこにも行き着けない。「生き方」を探ること。それが、旅をするということなのだ。

旅は「青い鳥」のようなもの
こういうことを考えていると、メーテルリンクの『青い鳥』を思い出す。
チルチルとミチルは、幸せを求めて長い旅に出る。しかし最後にたどり着いたのは、最初にいた自分の家だった。そして、幸せはずっとそこにあったのだと気づく。
旅も同じだと思う。どこか遠くに行けば、自分が大きく変わるわけではない。だけど、違う場所に身を置くことで、自分の中にあったものがはっきりと見えてくることがある。
旅先で出会った人との会話のなかで、普段の自分の考え方に気づくことがある。 いつもと違う街の空気のなかで、日常の何気ない風景の美しさを思い出すことがある。
結局のところ、旅で変わるのは「場所」ではなく、「自分の見方」なのだ。
そして僕は今、カンカルの港で、そんなことを考えている。
明日はモンサンミッシェルへ向かう。そこで何を考えるかは、まだわからない。でも、それでいいのだと思う。
(2017年4月カンカルにて)