月の光だけでいい
鎌倉の自宅の庭にある桜が、今週、いよいよ開花した。ある朝、ふと外を見ると、枝先にぽつりぽつりと淡い色の花が咲いていた。特に誰に知らせるでもなく、静かに、当たり前のようにそこに咲いている。こういう桜の咲き方が、好きだ。

それにしても、春になると、日本のあちこちで桜のライトアップが行われる。公園や川沿いの桜並木が、青白い光やピンク色の照明で華やかに演出され、多くの人がそれを見に集まる。光に照らされた桜は確かに美しい。空に溶けるような花びらが、夜の闇を背景にくっきりと浮かび上がる様子は、ある意味では幻想的だと言ってもいいかもしれない。それでも、桜にそんなに光を当てなくてもいいんじゃないか、と思ってしまう。
夜の桜は、それだけで十分に美しい。暗闇の中、目を凝らさなければ見えないくらいのかすかな輪郭を持って、月の光を受け止める。風が吹けば揺れる。そうやって静かにそこにあるものを、わざわざ人工の光で強調しなくてもいい。むしろ、そのほうが桜本来の姿に近いのではないか。
光を浴びることで初めて認識できるものもあるけれど、光を絞ることで見えてくるものもある。僕は後者のほうに、より興味がある。
求める美が眩い光ならば

夜の桜を眺める気持ちを言葉にして書いてみた。
闇はあるか
求める美が眩い光ならば
照らせ目をくらませるほどに
そうして夜の桜は美しいか
筆を持ちながら、考えていたのは「光と闇の関係」だった。僕たちは、美しさを際立たせようとするとき、つい光を強く求めてしまう。暗闇を追い払い、もっとはっきりと、もっと鮮やかにと願う。でも、もしその光があまりに強すぎたら、目がくらんで本当の姿が見えなくなるのではないか。
夜の桜は、ライトアップしなくても美しい。月の光だけで、十分だ。過剰に照らせば、その繊細な陰影は消え、ただ白く平面的なものになってしまう。求める美がまばゆい光でしかないのなら、それは本当に「美」なのだろうかとさえ思う。
静夜思と余白
李白の「静夜思」という詩がある。この感覚に響き合うものがあるかもしれない。
床前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
(床の前に月の光がさしこむ。それは、まるで地上に降りた霜のように白く広がっている。顔を挙げて山の上の月をながめ、頭を垂れて故郷を思う)
この詩の美しさは、明るい光そのものではなく、そこに生まれる静かな情感にある。李白は、ただ「月が明るい」と言っているわけではない。その光が、地上の霜のようにぼんやりと広がり、遠く故郷を思う心を照らし出すことに意味がある。
この詩を読みながら感じる余白と「間」が、光と影の関係にも似ているのかもしれない。書道では、すべての空間を黒い線で埋め尽くせば、それはただの黒い塊になってしまう。余白があるからこそ、文字が生きる。
夜の桜も同じだ。月の光だけだからこそ、その輪郭がほのかに浮かび上がり、僕たちはそこに「美」を感じることができる。
光が少ないほうが、美しいこともある
僕たちは多くの光に囲まれて生きている。街灯、ネオン、スマートフォンの画面、ビルの広告。光があることで、僕たちは安心するし、便利になる。でも、それと引き換えに、見えなくなったものもあるのではないか。
わかりやすいものとしてはたとえば、星空。都市の明るさに埋もれ、かつてはどこにいても見えたはずの星が、今では郊外まで行かないとはっきり見えなくなった。
あるいは、人の表情もそうかもしれない。明るいスクリーンを見続けるうちに、僕たちは相手のほんのわずかな仕草や表情の変化に気づきにくくなっている。
「見えすぎること」が、本当にいいことなのだろうか。
夜桜は、ライトアップしなくても美しい。むしろ、月の光だけだからこそ、僕たちはその姿を感じ取ることができる。書も同じだ。すべてを黒い線で埋め尽くすのではなく、余白を生かすことで、本当に伝えたいものが浮かび上がる。
美しさというのは、ときに、余計なものを取り除くことで初めて現れるものなのかもしれない。
月の光だけで、十分なのだから

僕は今夜も、薄暗い空に桜の花を探すだろう。
余計な照明はつけない。静かな夜の空気の中で、月の光が、遠い街の光が桜の花びらを優しくなでるように照らしている。その淡い光のもとで、桜の輪郭はぼんやりと揺れ、あるいはそこにないかのように溶け込んでいく。
光があればあるほど、美しくなるわけではない。むしろ、光が少し足りないくらいのほうが、そこにある美しさは際立つ。
月の光だけで、十分なのだから。
小杉 卓