均整の取れた字形と流麗な筆遣いは日本書道史上の傑作
ときは平安時代。『白氏詩巻』は、三蹟のひとりである藤原行成が白居易の漢詩をしたためたものです。
均整の取れた字形と流麗な筆遣いは、日本書道史上でも群を抜いています。奈良時代から平安時代にかけて、中国の模倣・追随だった書が、藤原行成によって『和様』の書として大成されたとも言われています。国宝に指定されていて、上野の東京国立博物館に所蔵されています。
書道の古典作品は、中国・日本に膨大な量が残っていますが、中でも僕はこの作品が一番好きです。大げさな言い方ですが、世界で一番「美しい」と思っている書です。
現在残されている『白氏詩巻』には全部で8つの漢詩が書かれています。臨書する上で、その漢詩と口語訳をまとめました。
1 『八月十五日夜同諸客翫月』
【原文】
『八月十五日夜同諸客翫月』
月好共傳唯此夜
境閑皆道是東都
嵩山表裏千重雪
洛水高低兩顆珠
清景難逢宜愛惜
白頭相(勤強)歡娯
誠知亦有明年曾
保得清明強健無
【意訳】
『八月十五日夜 同諸客 月を翫(もてあそ)ぶ』
月の美しさが語り伝えられるのは、この夜のためにあるという。
あたりは静かで、誰もが「ここはまるで洛陽の都のようだ」と言う。
嵩山(すうざん)には、まるで幾重にも雪が降り積もったかのよう。
洛水(らくすい)は、起伏の中にふたつの真珠のように輝いている。
この澄んだ景色には、なかなか巡り会えないのだから、大切に味わおう。
年老いても、互いに元気で楽しみを分かち合いたいものだ。
たしかに、来年もこの日が来るとは分かっているけれど——
その時に、今のように健やかでいられるかどうかは分からない。
最も有名な冒頭の詩です。
この詩は、**「今この瞬間をともに楽しもう」**という、無常観と友情のあたたかさが交錯した作品です。中秋の名月の清らかな光のもとで、自然の美しさと人生のはかなさとを味わう、東アジア詩文化の豊かさが感じられます。
月の美しさと街の平和、自然美を詠い、歳を重ねる中で大切なことを見つめ直す奥深い漢詩。
現存する「白氏詩巻」は実は、
この詩自体は一枚の懐紙に書かれていますが、
つまり、この漢詩に続いて別の漢詩が納められていたか、
いずれにしても、自然の美しさと、人の生き方という普遍を詠ったこの詩で始まる「
2 『送兗州崔大夫駙馬赴鎭』
【原文】
『送兗州崔大夫駙馬赴鎭』
戚里誇為賢駙馬
儒家認作好詩人
魯候不得孤風景
沂水年々有暮春
『兗州の崔大夫駙馬を鎮守地へ送る』
皇族の一族は、あなたを「賢き駙馬(ふま)※」と誇りに思い、
儒者たちは、あなたを「すぐれた詩人」として認めている。
魯(ろ)の国の君主も、あなたのような風雅を独り占めにはできまい。
沂水(ぎすい)のあたりには、今年もまた、暮れゆく春がめぐってくる。
※「駙馬(ふま)」とは、中国の古代で皇帝の娘(公主)と結婚した男性に与えられる称号です。
この詩は、崔大夫という人物が「皇族の縁者(駙馬)」であると同時に、詩や学問にも秀でた人物であることを称えつつ、赴任地(兗州)への旅立ちを惜しみ、風雅な土地である魯や沂水の春の情景に彼の気品を重ねています。
「魯侯(魯の君主)」や「沂水」など孔子のゆかりの地を引き合いに出すことで、彼の高潔さや教養を讃える表現になっています。
全体として、知性と人徳に満ちた友人との別れを、敬意と余情を込めて描いた作品です。
3 『晩上天津橋閑望偶逢盧郎中張員外携酒同飲』
【原文】
『晩上天津橋閑望偶逢盧郎中張員外携酒同飲』
上陽宮裏暁鐘後
天津橋頭残月前
空闊境疑非下界
飄颻身以在寥天
星河隠映初生日
楼閣蔥籠半出烟
此處相逢傾一酌
始知地上有神仙
【意訳】
『晩に天津橋にて閑かに望み、たまたま盧郎中・張員外に逢い、酒を携えて共に飲む』
上陽宮から暁の鐘が響き終わったころ、
天津橋のたもとには、まだ残月がかかっている。
ひらけた景色は、まるでこの世のものとは思えず、
漂うように歩む我が身は、はるかな天にいるかのようだ。
星の川(天の川)は瞬き、朝日が昇りはじめ、
楼閣はもやに包まれながら、その姿を半ばあらわす。
この場所で君たちにめぐり逢い、盃を傾けたとき、
はじめて知った——この地上にも神仙がいることを。
この詩は、早朝の幻想的な風景の中で、偶然出会った友人たちと酒を酌み交わすひとときを描いています。
「上陽宮」「天津橋」「残月」「天の川」「朝日」「楼閣」「もや」など、時間と空間のあわいにあるものが巧みに配置され、現実と幻の境をぼかしながら、静けさと高揚が交錯する詩情が生まれています。
そして最後の一節、
「始知地上有神仙(はじめて知る、地上にも神仙がいることを)」
という結びには、偶然の出会いと酒宴の喜びが、まるで仙境にいるかのような感動を与えた、という深い余情が込められています。
まさに、俗世の中で一瞬だけ垣間見える永遠を捉えた名篇と言えるでしょう。
4 『夜宴酔後留獻裴侍中』
【原文】
『夜宴酔後留獻裴侍中』
九燭臺前十二妹
主人留酔任歓娯
飄颻舞袖雙花蝶
宛轉歌聲一索珠
坐久欲醒還酩酊
夜深臨散更蜘蹰
南山賓客東山妓
此會人間曽有無
【意訳】
『夜宴、酔後に裴侍中へ留めて献ず』
九つの燭台が灯る前に、十二人の舞姫たち。
主人は酔いを引き留め、思うままに歓楽を楽しませてくれる。
ひらひらと舞う袖は、まるで二輪の蝶のように戯れ、
たおやかな歌声は、一粒の真珠を糸でたぐるように艶めいている。
長く座れば、酔いが醒めかけても、また酩酊に引き戻され、
夜が深まり、宴の終わりが近づいても、名残惜しさに足が止まる。
南山の賓客、東山の妓女——
こんな夜が、人の世にかつてあっただろうか?
語注と解釈補足:
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九燭臺:九本の燭台、豪奢な宴席の光景。
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十二妹:十二人の妓女、舞姫たち。人数の象徴性もあり、華やかさを強調しています。
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飄颻舞袖:風に舞うような袖、舞姿を蝶に喩えるのは中国詩の典型的な比喩です。
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一索珠:「一索(いっさく)の珠」とは、糸で真珠を引き寄せるような、なめらかで艶やかな歌声の譬え。
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酩酊(めいてい):深酒によって意識が朦朧とすること。
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蜘蹰(ちちゅう):ためらい、逡巡するさま。別れがたさの余韻。
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南山賓客、東山妓:古典的な教養と享楽の象徴。かつての高士や名妓のように、非日常的なひととき。
この詩は、夢のような宴の一夜を描きながら、酔いのなかに漂う時間のはかなさと人との縁のかけがえなさがにじんでいます。
最後の一句、
「此会人間曽有無(この会、人の世にかつてありしや)」
には、目の前の現実が信じられないほど美しく、それが一夜限りの幻であることをどこかで知っている——そんな詩人の感慨が込められています。
まさに、一夜の桃源郷とでも言うべき詩ですね。
5 『和韋庶子遠坊赴宴未夜先歸之作兼呈裴員外』
【原文】
『和韋庶子遠坊赴宴未夜先歸之作兼呈裴員外』
促席留歓日未曛
遠坊思歸已粉ゝ
無妨接轡行乗月
何必逃盃走似雲
銀燭忍抛楊柳曲
金鞍潜送石揺裙
到時常晩歸時早
笑楽三分挍一分
【意訳】
席を詰めて歓談に興じているというのに、日はまだ暮れてもいないのに帰るとは。
遠くから来たゆえに帰りたくなるのはわかるが、顔色にそれが出ていたよ。
手綱をとって月明かりのなかを帰るのも、まあ、風情がないわけではないが——
そんなに盃から逃げるように、雲のごとく消えなくてもよいだろうに。
銀の燭台が照らす「楊柳の曲」の美しい調べを、どうして振り捨てられようか?
金の鞍の馬にこっそりと、石畳に揺れる舞姫の裾を後にして帰るなんて。
来るときはたいてい遅く、帰るときはいつも早い——
この宴の楽しさを三とすれば、君はその一しか味わっていないじゃないか。
補足解説:
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曛(くん):夕闇が迫る意。まだ暗くなっていない、の意に使われています。
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接轡(せっぴ):手綱をとって馬を走らせること。
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逃盃走似雲(盃を逃れ、雲のように走る):酒を避けて早々に去るさまをからかっています。
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銀燭/楊柳曲:明るい燭火のもと、「楊柳」を歌った曲(春の情景や別れの象徴)を楽しむ場面。宴の華。
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金鞍/石揺裙:「金の鞍」は貴族の乗馬、「石に裾を揺らす舞姫」は宴席の艶やかな情景を示します。
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笑楽三分挍一分(さんぶんの楽しみ、君は一分だけ)」:宴の三分の楽しさのうち、わずか一分しか堪能せずに帰ってしまった、と軽く皮肉を込めています。
この詩は、ユーモアと風雅が交錯する社交詩で、当時の文人同士の付き合いの粋なやりとりが感じられます。
「そんなに急いで帰らなくても、もう少し一緒に楽しめばよかったのに」という、友情のこもった惜別のからかいが、なんとも人間味があって魅力的です。
漢文・漢詩は現代の中国語の文法ともずいぶん違うため、
例えばこの詩では、
「石揺(ザクロ)の裙(もすそ)」という言葉が遣われています。
6 『集賢池、答侍中客問』
【原文】
『集賢池、答侍中客問』
主人晩入皇城宿
問客俳徊何所須
池月幸閑無用處
今宵能借客遊無
【意訳】
『集賢池にて、侍中の客の問いに答える』
主人(私は)夕刻に皇城(禁中)へ入り、泊まることになった。
それなのに、あなたは何を求めて、ここをさまよっているのか?
池に映る月は、さいわいにも静かで、何の用もない場所だが——
今宵だけは、この客人にお貸しして、遊ばせてくれまいか?
補足解説:
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集賢池:宮中にある風雅な池。知識人の集う「集賢殿」に関連する場所とされます。
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侍中:高位の官職の一つ。ここでは「侍中の客」=その随行者、または一時の訪問客を指します。
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俳徊(はいかい):あてもなくぶらつくこと。「何所須(なにをもちいる)」=何を求めているのか。
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池月幸閑無用處:「池に映る月は、静かで、特に用事もないが」=自然の美に理由はいらない、という含み。
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**能借客遊無(よくかくにかくをゆずってたのしましむるや)」:詩的に、池と月に語りかけるように、「どうかこの客人に、遊びのひとときを貸してやってくれまいか」と詠んでいます。
この詩は、自然の美に対する心のゆとりと、客人へのさりげないもてなしが感じられる詩です。
とくに最後の二句には、**「月が照るだけの静かな池にも、心ある人がいれば宴となる」**という東洋的な美意識が滲んでいます。
短いながらも、静謐な情景とやさしさが立ち上がる、とても魅力的な詩ですね。
7 『和河南鄭尹新歳對雪』
【原文】
『和河南鄭尹新歳對雪』
白雪吟時鈴閤開
故情新興兩俳佪
昔經勤苦照書巻
今助歡娯飄酒盃
楚客難詶郢中曲
呉公兼占洛陽才
銅街金谷春知否
又有詩人作尹來
【意訳】
『河南の鄭尹が新年の雪に対して詠んだ詩に和す』
白雪の詩を吟じるとき、鈴を鳴らす宮門が開かれた。
懐かしい情も、新たな興も、ともに心を遊ばせる。
かつては苦労の中、書を照らす光であり、
今は楽しみを助けるものとして、酒盃に舞い散る。
楚の客人(私)には、郢中の雅な歌に応えるのは難しく、
呉公(あなた)はまた、洛陽の才をも兼ね備えている。
銅の街、金谷園に春が来たのをご存じだろうか?
そこにまた、詩人が尹(長官)としてやって来たのだ。
語注・解説:
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鈴閤(れいこう):鈴のついた宮門。王城の入り口。儀礼や詩宴の始まりを示す。
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俳佪(はいかい):心が戯れること。詩情に浮かれるさま。
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昔経勤苦照書巻/今助歓娯飄酒盃:
雪が「昔は苦学の日々、書物を照らした光」であり、
「今は酒席での歓びを添える、舞うようなもの」として対比される名句です。 -
楚客・郢中曲:楚の客=自分、郢中曲=洗練された詩。自分の詩才が敵わぬという謙遜。
-
呉公・洛陽才:呉の公=鄭尹を称える呼び方。才人としての誉れがあることを示します。
-
銅街・金谷:長安や洛陽の豪華な街並み・園遊会の地。
「銅街金谷春知否」=「あなたはもう春が来ているのをご存じでしょう?」と含意的な問いかけ。 -
詩人作尹来:詩人である鄭氏が、この地の長官(尹)として赴任してきたことを喜び、称えています。
詩全体の味わい:
この詩は、雪という自然の象徴を通して、過去と現在、苦労と歓び、友と才を語る洗練された応答詩です。
なかでも、
昔経勤苦照書巻
今助歓娯飄酒盃
という対句は、雪を詩的に、人生の両面の象徴として捉えた名表現です。
最後の「詩人が尹として来た」という一句に込められた敬意と友情は、
詩と人を愛する心がつなぐ、時代を超えたやりとりとして今も新鮮な感動を与えてくれます。
8 『即事重題』
【原文】
『即事重題』
重裘煖帽寛氈履
小閣低窓深地爐
身穏心安眠未起
西京期士得知無
【意訳】
『即事重ねて題す』
重ね着の毛皮に、あたたかな帽子。
厚手の毛布に、ゆったりした履きもの。
小さな楼閣、低い窓辺。地炉(ぢろ)は深く赤く燃えている。
身はあたたかく、心はおだやかで、まだ眠気の中にいた。
——(そんな私を)西京の同志たちは、いま想ってくれているだろうか?
解説:
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重裘煖帽(じゅうきゅう・だんぼう):重ね着した毛皮の衣、あたたかな帽子。冬の防寒具。
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氈履(せんり):氈(もうせん)でできた柔らかく温かな履物。中国北方の冬用スリッパのようなもの。
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小閣低窓(しょうかく・ていそう):小さな建物の、低く小さな窓。こぢんまりした書斎のような場所。
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地炉(ぢろ):地面に埋め込んだ囲炉裏のような暖房具。体を芯から温める存在。
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身穏心安(しんおん・しんあん):身も心も穏やかであること。満ち足りた状態。
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西京期士(せいきょうのきし):西京=長安、あるいは友人が住む京のこと。期士=志を同じくする士(友人)。
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得知無(しるをうるやいなや):〜を知っているだろうか?という文末の疑問形。
詩の味わい:
この詩は、冬の朝のぬくもりと静けさ、そしてそこからふと想い起こされる遠くの友人たちへの問いかけが、簡潔なことばのなかにしっとりと込められています。
「身穏心安眠未起」には、冬の朝の幸福感がすべて詰まっているとも言えるでしょう。
そして最後の一句で、その幸福のなかにも、人とつながりたいという温かな思いがにじみ出ています。
まさに「静けさの中に友情の火が燃える」ような、余白の美を感じさせる小品です。
時代のちがう人の言葉を解するのは難しいけれど
以上、『白氏詩巻』に書かれている8つの漢詩の原文と意訳をまとめました。
自信の読解力が及ばず、中には誤字があったり訂正を要する箇所があるかもしれません。ご指摘いただければ幸いです。
古典に接していると自分の力のなさを痛感します。
それは書表現についてだけではありません。
少しずつ、一つずつではありますが、テクニックを磨くことはもちろんのことながら、
時代のちがう人の言葉を解するのは難しい。
しっかり相手の言葉に向き合いたいものです。
小杉 卓