また来年、と。春の余韻に立ち止まる
四月の下旬になると季節はふと足を緩める、ような気がしている。
まるで何かを惜しむように、時間の歩みが少しだけゆっくりになる。
今朝、硬い小径の上で小さく深呼吸したときのことを、少しずつ思い返しながら書き留めてみました。

昨日は雨が降っていた。激しくもなく、かといってなかなか止みそうにない、少しだけしつこい雨だった。冷たくはない。むしろあたたかかった。今朝、濡れた玄関先の小径の上に、八重桜の花びらが敷き詰められるようにうっすらと並べられていました。春の、ひとつのささやかな風景がそこに沈殿しているようだった。
僕は箒を手に小径を掃き進めていたわけだけど、どういうわけか、その手を途中で止めた。それは反射的な動作だった。ああ、もったいないな、と思ったのだ。
掃けばすっきりする。きれいになるし、道もすぐに乾く。でも、今この瞬間、この光景を壊してしまうことへのためらいが、僕の手を止めた。たぶん、そういう類の直感だったのだと思う。
濡れた花びらが小径を埋める様子は、どこか時間の底を歩いているような、不思議な感覚をもたらした。過ぎようとする春の記憶が、視覚のかたちをかりて、地面の上に再構成されているようだった。少し息を吸い込む。小さな深呼吸。
八重桜は、その重たげな花から想像できないような、薄い花びらをひらひらと落とす。潔いというより、コンサートのあとの静謐な余韻のように、あるいは、少し重たい物語の爽やかなクライマックスのように。その散り方が、僕は結構気に入っている。

八重桜が散ったあとには、かすかに、でも確かに、夏の気配がやってくる。
きっと明日から空気の質感が変わる。湿度の中に混じる、草の青さのような匂い。遠くで誰かがシャッターを開ける音、朝の鳥の鳴き声が少しだけ伸びやかになる。
季節が舵を切ったことに、身体が先に気づく。
桜の季節には、どうしたって少しの寂しさがついてまわる。けれど、それと同時に「また来年」という小さな約束が、時間の中に確かに灯る。それは不思議と心を軽くしてくれる。何も終わっていない、まだ続いていく。来年もまた、同じようにこの道を歩いて、花びらの余韻に出会えるだろう。

春の余韻に
ほうきをにぎる
手をとめて
深呼吸する
また来年と
あの瞬間、手をとめたときの空気、雨の匂い、濡れた袖口、そして小径の先にうっすらと差していた光の気配。
春の余韻に、ただ身を置くというささやかな贅沢。
雨はやんだ。また来年。
小杉 卓