ニラと龍
ある夜、僕は居酒屋で一人の男性と話をする機会があった。僕よりも4歳年上の彼はビジネスの世界で活躍する人物で、効率的な仕事の進め方や合理的な判断を重視するタイプだった。しかし、そんな彼がふと懐かしそうに語り始めたのは、子供の頃に習っていた書道の話だった。
「実は僕も書道を習っていたよ。でも、正直あんまり楽しいとは思ってなかったな」と彼は笑った。「最初の半年間、ずっと『ニラ』って書かされてたんだよ」
「ニラ?」と僕は聞き返した。
「そう、野菜のニラ。六ヶ月間、先生が手本を書いてくれて、それをひたすら書き続ける。でもね、なんのために書いてるのか、説明は一切なかった」
彼の話によると、三ヶ月目のある日、先生が「これでようやく『ニラ』は卒業だな」と言った。しかし、次の週の稽古に行くと、先生はそんなことすっかり忘れたように、また「ニラ」を書くように指示した。結局、彼はさらに三ヶ月、「ニラ」を書き続けることになった。
「その時はさすがに嫌になったよ」と彼は言った。「いったい何のために、俺は『ニラ』を書き続けてるんだ?ってね」
目的なき練習とフラストレーション
習い事というものは、多かれ少なかれ、こうした経験を含んでいることが多い。特に子供の頃、大人が何かを教える時、その目的や意味を十分に伝えず、ただ「やるべきこと」として押し付けることがある。
書道においては、手本を通して技術を学ぶことは重要な目的の一つだ。しかし、手本を忠実に書くこと自体が目的になってしまうと、学ぶ側にとってはただの作業になってしまう。特に「なぜこの手本を書くのか」という説明がなければ、フラストレーションは溜まる一方だ。
実際、彼の書道の先生が「ニラ」を手本に選んだのには、きっと理由があったはずだ。横画の基本、横画が二本あるときのバランスの取り方、そして左払いの基礎……。「ニラ」という二文字には、確かにいくつかの書道の基本技術が詰まっている。しかし、それを知らずに半年間ひたすら書き続けるのは、苦痛以外の何物でもない。
書の稽古において大切なこと
僕は、書の稽古の中で大切にしていることが二つある。一つは、古典を学ぶこと。もう一つは、自分の言葉を表現することだ。
古典を学ぶことは、一般的な書道教室での手本を書くことと近い。優れた作品に触れ、筆遣いを学び、さらにその背景を理解することで、技術と感性を磨くことができる。
一方で、自分の言葉を表現するというのは、その季節や、向き合う社会に対して自分自身が感じていることを、書として表現することだ。書道において、古典の言葉や既存の手本は、その時代を生きた人たちの言葉であって、一つの例に過ぎない。自分の感性を言葉にし、それを筆で表現する楽しみを知ることは、技術を身につけることと同じくらい、あるいはそれ以上に重要な学びとなる。
「龍」を書くという選択肢
そう考えると、先ほどの「ニラ」の話は、ある意味で古典的な稽古の一環だった。しかし、この少年が「ニラ」を好きだったわけでもなく、季節がニラの旬だったわけでもなかった。ただ単に、誰もが最初に「ニラ」を書くことになっていたから、それを書き続けていたのだろう。
しかし、もし「ニラ」の代わりに「龍」を書くことができたらどうだっただろう?
「龍」という文字には、横画がたくさん含まれ、書体によっては左払いもある。技術的に難しい文字ではあるが、もしその子供が「龍を書きたい」と感じたなら、それを課題にすることも一つの選択肢だったはずだ。
もちろん、小学校低学年の子供が「龍」と書くのは容易ではない。しかし、それゆえに「何が難しいのか」を考えさせることができる。構成要素の多さ、線の密度、バランスの取り方……。これらを実感させることで、「では、どんな練習が必要なのか」という課題が自然と見えてくる。
稽古とは何か
目的が明確に示されていれば、手段はいくらでも選択肢がある。横画や左払い、線の構成を学ぶためなら、「ニラ」である必要はなかった。もし彼が「龍」を書きたいと思っていたなら、それもまた正しい学びの道だったはずだ。
稽古とは、「何を学ぶのか」だけでなく、「なぜそれを学ぶのか」を考えるプロセスでもある。書道に限らず、ビジネスの世界でも同じことが言える。ただ与えられた課題をこなすのではなく、その目的を理解し、自分にとって意味のある形で取り組むことが、本当に価値のある学びにつながるのではないだろうか。
小杉 卓
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