聲は完成されたか、沈黙してしまったか。

聲は完成されたか、沈黙してしまったか
波は眞實を語り、樹は風を追いかける

「言葉が氾濫している」とも感じられる昨今、感じていることを書の一節に書きました。

情報技術(特に最近は生成AI)によって、私たちはかつてないほど膨大な言葉に囲まれています。世界で生成される言葉の数は、生成AIも含めると、1日に100兆語ともいわれています。

膨大な情報が飛び交う世界において、はたして私たちの「聲」は本来の役割をはたしているといえるのだろうかと自問します。あるいは、大量の言葉に埋没し、沈黙してしまってはいないだろうか。

「聲は完成したか、沈黙してしまったか」という一節で問いたいのは、情報技術の一つの達成によって、私たちの言葉は本当に「完成」したのか、または完成に近づいているのかということ。私たちは効率化を求める社会のなかで、急速に生み出される言葉を消費し続けています。さらには、消費されることすらなく過去に積み上げられていく言葉もあるでしょう。その中に、人を豊かにする言葉はどれほどあるでしょうか。人が一生のうちに読める文字数は1億文字程度にすぎません。限られた範囲・能力の中でどのように言葉を選び、向き合うべきかが問われていると思います。大量の言葉が生み出されることで、言葉そのものがノイズになっているかもしれません。

「波は眞實を語り、樹は風を追いかける」という後半の一節では、自然界に目を向けました。情報が爆発的に増加する現代においても、自然は変わらずそこにあり、私たちの思考と対話する場を提供してくれます。波が語る「眞實」は、人間のつくり出した言葉のように膨大で不確かなものではなく、シンプルでありながら揺るぎない真理を持つ。そして、波を見つめることは、同時に自らを見つめることでもあるのではないでしょうか。そして無邪気にも、木々は風を追うように揺れる。

情報の洪水の中で、私たちはどのように言葉に向き合うべきか。膨大な情報に圧倒されながらも、立ち止まることを恐れず、自然に耳を傾け、自らの言葉を紡ぐことから逃げてはいけないな、と感じます。

それではどうするのかといわれれば、自分の目で文字を読み、人の言葉に耳を傾け、考え、なんとか自分の言葉を捻り出すしかないよなあと思う今日この頃です。