眼をひらけ。ときを染めろ。

「眼をひらけ。ときを染めろ」

様々な花の開花は慶ばしい。
ときのすすむあかしだ。
その尺度はしかし自分の感覚とは必ずしも一致しない。
自分の中に秤があればそれでいい。
眼をひらけ。ときを染めろ。

冬から春に、少しずつ空気が変わってきたのを感じます。玄関のドアを開けた瞬間のひんやりとした匂いがわずかに柔らかくなり、どこか湿り気を帯びている。日が高くなって、影の輪郭はほんの少し淡くなったように感じる。

ふと、階段を降りる足取りが軽くなる。そんな小さな変化に気づいたとき、人は「春が来た」と感じるのかもしれません。

「春のはじまり」はしかし、当然だけど人によって全然違う。たとえば岩手県に住む知人は、この時期に降る湿った雪に春を感じると言っていた。乾いた粉雪ではなく、わずかに水分を含んだ重たい雪。手のひらに乗せるとじんわりと溶けて、指先をひやりと濡らす。こうした雪が降ると、もうすぐ冬が終わるのだと彼は思うのだそうです。

一方で、多くの人にとって春の象徴といえば桜、と言ったらあまりにも陳腐でしょうか。

連日テレビのニュースでは開花の様子が報じられ、SNSは桜の写真であふれる。桜が咲けば、誰がなんと言おうと春の訪れを疑う余地はない。でも、それが本当に「春の始まり」なのでしょうか。

しかし僕は思う。春の訪れはもっと、とても個人的なものではないか、と。自分にとっての春の合図は何か。庭先に顔を出した蕗のとうかもしれないし、朝の布団から出るのが少しだけ楽になった瞬間かもしれない。あるいは、あまり好ましくはない花粉を感じる瞬間かもしれない。

誰かが決めた「春」ではなく、自分自身の眼で見て、感じたものを自分の尺度にする。

季節はどんどん流れていく。それをどのように認識し、どんな色を与えるかは、自分自身の感覚に委ねられています。

春は桜色で表現されることが多い。それは本当か。春が芽吹きの季節ならば、緑とも言えるし、雪解け水の透明感を思えば淡い青かもしれない。

私たちはただ流れる時間の中にいるのではなく、その流れの中のある瞬間を自らの解釈でとらえて「ときを染める」ことができるのだと思う。