「自由に書いてください」
そう言われるときほど、表現にかかる責任は大きいと思っています。
そのときに表現を支えてくれるのは、日々の古典臨書だなと切に感じます。
例えば「こう書いてください」と言われた作品の出来を判断するのはクライアント(鑑賞者)ですが、「自由に書いてください」と言われたときにその作品の出来を判断するのは自分(作り手)しかいません。
しかも「自由に」と言ってくれた手前、作品の出来がどうであってもクライアントが「これはちょっと、、、」とは言いにくいですよね。
だからこそ、
見えない期待を超える作品を作らなければという責任があります。
作り手自身が自分の作品を判断するのは、
自分の美学を試されるというか、
そこで自分に都合がいい解釈をしないように気を付けなければな、と思っています。
小杉 卓
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