基本を学ぶというのは「内側からみる」ことではないか。小澤征爾さんの言葉に気付かされたこと。

多くの場合、インタビューや対談というのはその役割が「聞き手」と「話し手」に分かれている。

一方が質問を投げかけ、もう一方がそれに答えていくことでその文脈を作っていく。「その視点は新鮮だなあ」と感じる質問を重ねていくことができれば、インタビューや対談はより一層深みを増し、読者にとっても魅力的なものになる。

しかしどれほど聞き手の質問が洗練されているものだったとしても、そのインタビューや対談を読んでみようと思うきっかけとして圧倒的に多いのは、読者が「話し手」のファンである場合ではないかと思う。まあそもそもインタビューというのは話し手のストーリーをまとめることだから、それが当然と言えば当然なのですが。

しかしながら僕が先日読んだこの対談は、他の多くの「対談」とは大きく違った。聞き手も話し手も、昔から僕が大好きな方々だったのだ。

 

村上春樹さんの本、
「小澤征爾さんと音楽について話をする」

画像:Amazon

この本も対談の例に逆らうことなく、主に村上春樹さんが聞き手、小澤征爾さんが話し手として対談が進んでいく(文章を書いているのはもちろん村上春樹さん)。しかし音楽、特にジャズとクラシック音楽に造詣の深い村上春樹さんとのお話ですから、けっこう村上春樹さんも語るのです。きっと、小澤征爾さんのファンにとっても村上春樹さんのファンにとっても嬉しいこの本は、お二人のファンである僕にとっては嬉しすぎる本なのです。

 

クラシック音楽の様々な演奏をお二人がその場(レコードなど)で聴きながら、その演奏の感想や、音楽の構成などについて話を重ねていくこの本。後半には、小澤征爾さんが主宰するスイスでのマスタークラスに村上春樹さんが同行して取材していた様子が取り上げられている。そのマスタークラスで弦楽四重奏を勉強する理由について、小澤征爾さんが「弦楽四重奏は合奏の基本。音楽を内側からみることができる」というようなことをおっしゃっていたのが印象的だった。

編成の大きいオーケストラとは違い弦楽四重奏は一人の奏者が一つのパートを演奏し、音楽を創り上げていく。一人ひとりの音の質感や、リズム、4人で演奏を合わせていくプロセス、どの要素をとっても、オーケストラのような大編成の曲を演奏するよりも細かく音楽を勉強することができる、という。

 

これは、
書道にも応用できそうな考え方だ。

書の基本は楷書だと言われているけれど、楷書を学ぶことは文字を内側から書くことではないだろうか、という点で、小澤征爾さんの「弦楽四重奏は合奏の基本。音楽を内側からみることができる」という言葉はとても参考になる。 線質はもちろん、文字の構成の仕方を学ぶこと。どんな配置・バランスで書くと美しく見えるのか、全てに理由があって、一画一画を丁寧に書き進めること。それが楷書を学ぶ最大の理由だろう。

もちろん行書や草書、そのほかの書体・作品を学ぶことにもたくさんの意義がある。しかし、オーケストラの音楽づくりのそれのように、作品全体のダイナミクスや流れ、文字と文字との連綿(字がつながること)の兼ね合いなどに意識の比重は大きくなる。一文字一文字の点画の構成や、一画の線質までを緻密に学ぼうとした場合、やはり「楷書」にそのメリットがあると言えるだろう。

そんな楷書の代表格、「九成宮禮泉銘(欧陽詢)」をここのところ集中して臨書しいているのだか、「内側から書く」というイメージを持つことで練習の質が格段に上がったように感じる。

 

楷書というと「静」的なイメージが強いけれど、九成宮醴泉銘の線をしっかり見ると、均整のとれた線の中に密度の濃い躍動がある。 だからカタチばかりを整えようと臨書をすると骨抜きの楷書になってしまう。

内側の、芯から書くようなイメージを持たないと密度のある線は書けない。これはきっと、弦楽四重奏で一人の奏者がしっかりと自分のパートを弾き切らないと、音楽全体の躍動感が損なわれてしまうとか、そういうなことではないか。

 

料理やファッションだってそうなのかもしれない。

きちんと基本を学ぼうと思ったら、他の分野でもそうなのだと思う。

料理で考えれば素材の選び方や道具の取り扱い、ファッションであれは生地の特性や構成など、より内側の要素に自然と意識が向いてくるのではないか。単に、レシピや縫い方の手順をなぞるだけでは見えない、そのものの基本がそこにあるはずだ。

内側から料理をみる。

内側から服をみる。

 

優れた料理人、パタンナー、モデリスト、デザイナーも、みなそう考えているのかもしれない。