朝、コップ一杯のオレンジジュースを飲みながらゆっくりカフェオレを淹れる。
淹れたてのカフェオレを机に置き、おもむろにパソコンを開きながら、同時に硯のふたを開ける。
ペットボトルのキャップ2杯分くらいの水を硯に注ぐ。
これくらいの量でも、漢字の臨書用にしっかり擦ろうと思うと20分くらいかかるのだ。
硯の手入れにはいろいろな見解があるが、僕はそう頻繁に硯を洗う方ではない。練習後に硯の陸の部分(墨をする部分)を濡れた紙で軽く拭く程度にしている。
そうすると、硯の端のところに少しずつ墨が固まったものができる。
さて、硯の端に固まったその墨と、今私が擦ろうと握っている固形の墨とは、「墨の塊」という意味では同じものだが、その質は圧倒的に違う。
書いてみればよく分かる。
一度擦って液体になったものが再度固まった墨というのは、どれだけ水に溶いても、強い黒色にはならない。
固形の墨というのは、大変な手間をかけて作られている。
(参照:墨運堂「墨の造り方」)
自然と出来上がった墨と人の意志をもって作り上げた墨とでは、見た目は同じでも、全く別物であるといっても過言ではない。
訪日外国人向けのメディア、MATCHAを運営する青木優さんが、メディアを立ち上げたころにこんなことを言っていた。
「僕は『熱量』をキーワードにしています。
例えば、インバウンドメディアとしては京都の清水寺の記事は間違いなく書かなければいけない。
情報さえ集めれば記事を書くことは難しいことではありません。誰にでも書けるかもしれません。
でも、『どうしても清水寺の記事が書きたい』という人が書いた記事は、その『熱量』が違うんです」
と。
さもありなん。
「好き」
「やりたい」
「こうしたい」
そこに明確な意思がある表現は、観る側の気持ちを揺さぶるほどの熱量がある。
音楽でもそうだ。聴いていて、ああこの人はこの曲が本当に好きなんだな、という演奏が確かにあるのだ。
ネットで検索すれば、たいていのことは調べられる。
しかし、その情報がどれだけ正しくても、人は情報によって動くのではない。
実際にその人を行動にまで突き動かせるかどうかというのは、その情報・表現に込められた熱量にかかっていると思う。
表現者自身が心をふるわせた経験が、文章や音楽などの表現ににじみ出るものだ。
自分もそこに行ってみたい、食べてみたい、聴いてみたい。そう感じるのは、その心のふるえに共鳴しているからではないかと思う。
僕も、自分の心がふるえるような経験をもって紙に向き合っている。
書を見てくれる人の心を少しでも共鳴させることができたら、嬉しい。
そして、
MATCHAで清水寺の記事が書かれているかどうか、ぜひ探してみてください。