マネの絵に感じた、表現と人生に「影」が必要だと思う理由。

(マネ「笛吹きの少年」1866年)

印象派の画家の中でも、特にマネの絵が好きだ。(※美術史的にはマネは印象派には属していない)

色使いには印象派独特の「ぼんやり」感がありながらも、濃い色や強い線で「はっきり」した表現があり、矛盾するようなこの2つの表現の混在に惹かれる。

印象派のモネやルノワールは日本では絶大な人気があるから、彼らの作品をテーマにした大規模な展示会が企画されたり、施設のコレクションとして収蔵している美術館も少なくない。しかし、個人的にはとても残念なことになぜか日本でマネの展示は少なかった。

 

 

しかしここパリでは違う。

オルセー美術館に足を運べば、マネの絵があふれている。もちろんモネやルノワールの作品の多さは言うまでもない。どの画家が、などと探すまでもなく一つの展示室から数点選べば、十分に企画展になるようなコレクションばかりであるから興奮は尽きない。

そんなオルセー美術館で大好きなマネの絵を間近に見ていて、気づいたことがあった。

「影」である。

影といっても、絵として描かれている影ではない。キャンバスの上に物理的に存在する「影」だ。

油をたっぷり使ったタッチは、キャンバスの上に隆起を生む。図録などで絵を観ていただけでは、その隆起ははっきりとはわからないものだった。いまマネの絵を目の前にして、その油の隆起が生み出す「影」の存在をはっきりと感じることができる。そして、この影こそが、マネの絵が僕の心をひきつける核心であるように思えてならない。

影によって生み出される立体感や奥行き、そして色相の微妙な変化。これは油の色によるものではなく、キャンバス上の影によって生み出されているように思われる。

平面と立体をつなぐ影の存在に、おもわず目を惹かれるのだ。

「これ」といった色ではなく、影の存在によて霞む色に心惹かれているのだ。

 

 

ジャコメッティはこんなことを言っていた。

「すべての色の基調は灰色(グレー)だ。パリが好きなのもその灰色のためだし、人生そのものが灰色ではないか」

ジャコメッティの言う「灰色」とは、僕がマネの絵に感じた「影」に近いのではないだろうかと思う。

はっきりと「何色」と言い切れないようなぼんやりと霞んだ色合い。主張の強い表現が乱立しているパリも、総体的な色合いがジャコメッティの言う通り「灰色」なのは興味深い。

例えば人の心も、はっきりと割り切れないような、白黒つけられないような場面というのがある。100%正しいとも言えないし、可能性が0%だとも言えない。そんなことばかりではないか。

しかし、何かしらの心の動きや表現がある限り、そこには「影」ができる。その霞がかったところ、うっすらとベールをかぶったような神秘性にこそ心の機微がある。そこに惹かれることが恋愛や、信頼を生んでいるのではないかと思う。

書道表現も、
紙に表現されているのは余白と墨の黒色だけでなく、擦れや滲みによる表現が、その言葉に霞みがかかるように「影」を付けるのかもしれない。