歴史上の偉業に共通する3つの要素は、現代でも必要なのか。

司馬遼太郎の本をよく読む。

彼の本の中で一番好きなのは「燃えよ剣」で、中学生のころ初めて読んで土方歳三の生き様に大変な衝撃を受けた。司馬遼太郎の本がかなり史実に基づいて書かれているとはいえ、もちろん脚色されているであろう。しかしその脚色を加味したとしても、幕末にあって新選組とともに散った潔さには感銘を受けた。

いまはパリで「翔ぶが如く」を読んでいる。偶然にも一巻はパリの情景からストーリーが始まる。

先日その本の中で印象的な一節に出会った。

「勢いに乗った時勢というのは悍馬のようなものだ。理由があって走り出すものではなく、走るべくして走りだすものだ」

明治維新期の日本の様子をたとえている段だ。
西郷隆盛はその悍馬にのった偉人であると。

なんの本であったか、きっと司馬遼太郎の本であったかと思うのだが、歴史に名を残すような功績をあげることについてこんなことが書かれていた。

なんでも、偉大なことを成し遂げるには3つの要素が必要だ。

「能力」と「権力」、そして「時勢」だと。

この3つの要素がそろって初めて事が成る。どれか一つでも欠けてしまっては、それができないと。

確かにそうかもしれない。
明治維新しかり、戦国時代や第二次世界大戦。歴史上に名を残してきた偉人というのは、何事かを為す能力があり、それを行使できる権力を持ち、また、その成果を時代が求めていた。ここフランスでいえばナポレオンがよい例だろう。

しかし近代以降、少しずつ状況は変わってきているのではないかと思う。その3つの要素が必ずしもそろう必要はなくなってきているのではないだろうか。具体的には、「権力」という要素は事の成否にあまり関係しなくなっているように思う。

例えば、
MicrosoftとApple。

ITの仕組みとiPhoneというデバイスによって、間違いなく世界を変えた。ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブスの名は、我々日本人でも知っているし、その人生は本や映画にもなっている。

彼らにはそれを成し遂げる能力があったことと、時代がその革命を求めていたという背景はあるだろう。しかし、その革命がスタートしたとき、彼らは学生だった。特別な権力はまったくなかったといっていいだろう。

現代において物事を成し遂げることに、歴史に名を残すか否かにかかわらず、権力を必要としない。

能力を発揮し、かつその結果が時代のニーズに合致していれば、インターネットを介することで瞬く間にそれは世界に広がる。

僕たちは、スマートフォンを片手にすれば、文章や写真を世界中の人の目に触れる舞台で表現することができる。そこには何の権力も資格もいらない。表現を作り出す自分の能力と、時代のニーズを見極めることができればいいのだ。