書道は腕よりも先に目が肥える。

ここ1か月ほど、藤原行成の「白氏詩巻」を臨書している。

平安時代に藤原行成が白居易の詩をしたためた、それはもうため息が出るほど見事な作品で、日本の書(和様の書)の代表作だ。国宝にも指定されている。この「白氏詩巻」との1か月の奮闘記については別の記事で紹介したいのだが、今回はこの1か月であらためて気づいた「目が肥える」ということについて。

毎日毎日お手本をもとに臨書をしていれば、もちろん字は上手になる。驚くほどの速さで上達する人、なかなかコツをつかめない人、程度の差はあれど、必ずうまくなる。練習するとはそういうことだ。

自分で言うのも恐縮だが、僕もこの1か月間でこの白氏詩巻の臨書がうまくなった。日本から持ってきた1,000枚の半紙がそろそろなくなるくらい書いていて、それだけの紙と時間を使っているのだから少しはうまくなってくれないと僕としても困る。

そして同時に目も肥えた。

一枚一枚、一文字一文字、一画一画を書くにあたって、まじまじとお手本を見る。すると、取り組み始めたころとはまるでお手本が違って見えてくる。起筆、終筆、線の強弱、字形、渇筆など、そこに記された書が、それまで考えていた以上に難しくそして美しいことが分かってくる。

感覚値なのだが、
書道においては字がうまくなるスピードよりも、目が肥えるスピードのほうが若干早い。

するとどうなるか。

自分が上達しているのは確かだけれど、それ以上の速さで目指すレベルが難しくなっていくから、実力と目標との差がどんどん開いていくのだ。「表現できること」よりも「表現したいこと」のほうが増えてくるのだ。

上手くなっている実感はありつつも、まだまだ先人の書に到底かなわないという、その事実をはっきりと突きつけられる。上手い書とはどういうものなのか、なぜそれが上手いということなのか、というのがお手本の中にどんどん見えてくるわけだ。それはイコール、漠然ととらえていた「難しさ」がどんどん明確になっていくことでもある。

スポーツなどもそうかもしれない。

サッカーでも野球でも、本当に上手なプレーは美しく、いとも簡単そうにそれをやってのけているように見える。そして、それを自分でも真似しようとしたところで全然できずに、実際のところは高度なテクニックが必要だということを実感する。

そんな具合だ。

ここで、明確になった「難しさ」を少しずつ克服していくしかないわけだが、悩ましいのは、その過程においてもお手本はどんどん難しくなっていくということだ。でも、書の臨書に取り組むというのはそういうことだ。

自分が上手くなったと思ったら気を付けなければいけない。まだまだ目指すべき書には適わないなと思うくらいが、ちょうどいい。