京都の友人が紡いでくれた「半紙の糸」が考えさせてくれたこと。

京都で織物の勉強をしている友人が、糸を紡いでくれた。

実は昨年の夏のこと、
友人から「和紙で糸を紡いでみたいと思っていて、書き損じの半紙などでよいので良さそうなものがあったらいただけないか」と相談をもらった。練習済みの半紙はそれこそたくさんあるから、夏に京都を訪れたときにその和紙を渡したのだった。

そのときは、小筆で楷書を書く練習に集中していたから褚遂良の「雁塔聖教序」をひたすら臨書していた。褚遂良は唐時代の政治家・書家で、楷書を学ぶ上でもっとも重要な書家の一人だ。その特徴は流麗・しなやかな筆線で、「堅い」イメージのある楷書体においても多彩な表現を感じさせる。

使っていた和紙は祖母からもらったもので、ずいぶん昔に購入したものだと聞いた。押入れの奥に入っていたというから40~50年位前のものではないかと思う。古い和紙はよく乾燥していて、墨ののりがパリッとする。楷書の練習にはぴったりだ。古いほどよい和紙ということは一概には言えないが、貴重なものであることは間違いない。ただ、この和紙はところどころにシミがついてしまっているから清書用として使うのは難しく、臨書の練習用として大切に使っている。

そんな和紙を、だいたい100枚くらいだったろうか。友人にお渡しした。

そして、出来上がったという糸がこちらである。

 

和紙の温かい色合いと、ところどころに見える墨の模様が、きれいだ。この一本の糸をつむぐのにどれだけ時間がかかったかと思うと、その素材を書いたものとしては本当にありがたく、うれしい。

書道に取り組んでいると、自分はこの数か月・数年間の期間の中で何をしてきたのかと、ふと思うことがある。思うように作品が作れない時だってあるし、なかなか作品を人に評価してもらえない時もある。そんなときに自分の気持ちを支えてくれるのは、書き溜めてきた紙だ。自分はこれだけ書いてきた、という事実だ。

糸を紡いでくれた友人は、京都で織物の勉強をするために働いていた会社を辞めた。会社を辞めて書の道に進む僕の先輩でもある。きっといろいろ思い悩むこともあるのだろうと思うが、友人が一本一本紡いでいる糸こそが、事実として彼女の取り組みを証明し、僕という一人の人を感動させてくれている。

イチロー選手が日米通算でヒットを4,000本打ったときの記者会見でこんなことを言っていた。
「4000安打には、僕の場合、8000回以上悔しい思いをしている。その悔しさと常に、向き合ってきた事実は誇れると思いますね」

イチロー選手のヒット一本の価値と比べることはできないが、僕も僕なりに一枚一枚、せっせと書き上げてきた事実を誇りに思う。

おばあちゃんの和紙で紡がれた一本の糸に、一枚一枚を積み重ねていくことの大切さを思う。