芸術を自給に換算できない理由。

時給、という考え方がある。
とくに時間単位で働くアルバイトなどではその金額が大きな検討材料になる。

いろいろな場面でこれと同じような考え方をする人は結構たくさんいる。企業に勤めている人も、働いている時間を年収で割って「時給だったらこれくらい」などという話をよく耳にするし、あげくは料理とか美術とか音楽の類にまでその思考回路が廻って来ることがある。

この絵を描く時間は○時間で、=円で売れるなら時給は#円だね、などと。

その一つの作品を作るのにどれくらいの時間がかかっているか、というのは興味深い視点だと思う。しかし、モノづくりをしている者として感じるのは、多くの人の場合、実際に目にしているその作品を創り上げるのにかかった時間の算出が、かなり甘いと言わざるを得ない。というとなんだか批判めいて聞こえてしまうが、表現する者の一人として、作品に触れるときに少しだけ思いを巡らせてもらえたらうれしいという思いで、この文を書き進める。

例えば、一人のピアニストがコンサートを開くとしよう。

コンサートの演奏時間は2時間
入場者数は300人
チケットの値段は1枚3,000円
ホールの利用料などの経費が300,000円だとすると、

【収入】900,000円
【出費】300,000円

【収入】-【出費】÷2時間
の計算をして、時給300,000円、、、

となるはずがない。

ピアニストがそのコンサートを開催するにあたって費やしてきた時間が、わずか2時間でないことはどんな素人でもわかると思う。

その一曲、
その一音を、
そのコンサートで300人の人が聴きに来てくれる価値あるものにするための時間には、その人の音楽人生がかかっているといっても言い過ぎではないと思う。

美術の作品も同じで、演奏時間、すなわちその作品自体を描いている時間がたとえ数時間であっても、それがイコールその絵を描くためにかかった時間ではない。

書道の作品は、その作品自体を書く時間はほんの数分であることが多い。ものによっては数秒だ。でも美術の作品と同じように、それがイコールその作品を書くためにかかった時間ではない。

その作品が、誰かから依頼されたものであれば、その背景や期待をヒヤリングし、文言やデザインを提案し、場合によってはサンプルをもとに話し合い、何度も練習し、作品を書きあげる。商品を製作する会社にお勤めの方で経験があるかたもいらっしゃると思うが、新商品をつくるプロジェクト、まさにこのプロジェクトが作品ごとに進められているのだ。

そして、作品のクオリティの核ともいえる筆線。これは技術の差が歴然と現れる。本当に見事な筆線というのは数時間、数日という単位で書けるようになるものではない。古典の臨書で練り上げ、数か月、数年単位で積み上げていく技術だ。その人が書道に取り組んできた時間が線に現れるともいえる。

音楽も美術も、その人の経験と技術、そして思想をもって作品を創り上げるものだ。単に、目の前で演奏している時間、書(描)いている時間で出来上がるものではない。その人の経験と技術はその時間の枠だけでは測れない。これが、芸術を自給換算できないと考える理由だ。

粋がった言い方かもしれないけれど、
その作品を数分で書き上げるために、僕は20年間の時間を費やしている。そう考えている。