「~になりたい」よりも「どうありたいか」の解像度を上げる。

「なりたい」ことが見つかったときに考えたこと

 

試験や資格をもってはじめてその肩書を得られる職業があります。

司法試験や医師試験などの国家資格や、剣道・柔道、将棋や囲碁の昇段試験などがそれにあたるでしょうか。

 

試験・資格というはっきりした基準を目標にするのはいいことだと思うし、そもそもそれらは有資格者になって初めてその肩書を手に入れられるものですから、「資格=職業」という考え方も当然と言えば当然かもしれません。

 

僕は大学生のころ、書道に取り組む姿勢が大きく変わって、それと同時に「書家になろう」と思った。

なぜ僕は書家になろうと思ったか。

 

そこで考えました。

さて、書家とは何か。どうすれば書家になれるのか。

書道がうまいひとか。
書道を教えているひとか。
書道で展覧会に入賞したひとか。
書道の作品が売れるひとか。
書道の資格を持っているひとか。

いろいろ考えたけれども、これといった定義は見つかりませんでした。

「書家です」と名乗ればいつでもどこでも書家になれるともいえるし、実際のところ「書家・書道家」という肩書で活動している方はごまんといらっしゃる。

 

 

こういう書家になりたいというイメージが明確にならない中で少しずつはっきりしてきたのは、「書家だったら普通こうしているだろう」という、しごく具体的な行動イメージだった。

しっかり墨をする。素材・道具をしっかり見極める。辞書を引く。

基本的な所作をきちんとこなすこと。

しっかり臨書をして学び、美しく新しい作品を作り続けること。

 

書家で「あろう」と思った

 

僕が考える書家に、特別な資格は必要ないということがはっきりした。だから、定義がはっきりしない「書家」になることを目指すよりも、自分が考える書家であろうと思った。

 

資格がその身分を保証することは確かにあるし、受賞歴や経歴がその作品を評価する大きな参考にもなるでしょう。理想論かもしれませんがしかし、作品はその美しさに本質があるはずだし、同時に大切なのは作者が表現者として「どうあるか」という姿勢なのだと思います。

「~になりたい」と思っているうちは、そこに行きついていない自分への諦めとか甘えがどこかにある。

「~である」ためには今自分は何をしていなければいけないのかという緊張感と姿勢が、結果としてビジョンをカタチにする。そう思っています。

 

小杉 卓

 

メディア掲載情報

【メディア掲載】CYAN (WINTER 2018)にインタビューが掲載されました

 

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