「行き方」を調べる「旅」では、人はどこにも行き着けない。

「行き方」を調べる「旅」では、人はどこにも行き着けない

いまカンカルという街にいる。
イギリス海峡に面した港で、パリからバスを乗り継いで7時間ほど。牡蠣の養殖が有名な港町だ。かの有名なナポレオンもカンカルの牡蠣を取り寄せたという逸話もある。

フランスでは牡蠣が国民的食材といってもいいほどによく食べられている。日本でいうところのマグロのようなものでしょうか。海鮮的視点からはお世辞にも褒められないパリのレストランにも、牡蠣は間違いなくある。しかし、実はフランスで食べられている牡蠣の90%は日本にルーツがあるそうだ。

1970年代にフランスの牡蠣の養殖は寄生虫や冷害によって壊滅的な被害を受けた。そこで日本の牡蠣が輸入されることになり、現在の牡蠣養殖を支えているというわけだ。

そしてさらに、

東日本大震災で大きな被害を受けた三陸に、今度はこのフランスから牡蠣養殖のための物資が送られたという。

感慨深いものがある。

 

さて、そんなカンカルの街で牡蠣を頬張りながら考えている。
僕はこの旅でどこに行き着けるのか。

旅は情報ではなく、経験

分かりやすい目的地は最終的にはパリだ。

数日後にはパリに帰るのだ。パリを出発してパリに帰る。数日間という時間とお金をかけて出発地点に行き着くのだ。

だからこの意味において、僕はこの「旅」ではどこにも行けない。その旅が、物理的な場所を目的地とした「旅」だとすれば、行き着くところはたいていの場合は出発地点だ。ゴールは帰るところだ。

でも、旅で人は成長するともいう。見知らぬ土地に、電車やバスを駆使して向かうからか。言葉がうまく通じない環境で食べたい物を注文するからか。いや、そんなのはスマホで調べれば答えは出る。単なる「行き方」に過ぎない。

この「行き方」を調べての「旅」では、場所にしかたどり着けない。有名な建物を観たときに、それまでの自分のイメージを突き合わせるだけの旅は情報のアップデートに過ぎないからだ。大切なのは、それまでの自分の中になかった経験を蓄積させていくことだと思う。

「行き方」ではなく「生き方」を探ろう

その旅のモチベーションは何なのか。
その食べ物はどんな想いでつくられているのか。
そこに住む人たちはどんな表情をしているか。
出逢った人とどんな想いを共有したか。

この答えはスマホで調べられない。
「行き方」ではないから。
自分で考えなければならないから。

調べられないことを経験しに行くこと、そして考えを深めるためにするのが、旅の本質ではないかな。

 

そして、旅をして成長するというのは、
決して有名な建物を観ること、有名な食べ物を食べることだけでは達成できない。人は「生き方」をもって、自分が目指す場所にたどり着くのだ。でもそこまでの「行き方」は簡単には分からない。それを学ぶのが旅なんだと思う。
こうすればやりとりが上手くいくとか、これを言ったら失敗するとか、いろいろな場所でいろいろな人と話す中で自信をつけたり、考えを変えていく。
人は生き方を変えていくことで、どこかにたどり着くことができることなんだと思う。それが、僕が考える旅だ。
なんだか「青い鳥」みたいな話になってしまったな。
明日はモンサンミッシェルへ向かう。