3月の卒業からこの4月の入学シーズンにかけて、うれしいと思っているのはいろいろな学校の先生の話をWebで見られることだ。心にズシンとくるスピーチというのは、学校を卒業した今になって聞いても、学ぶものは多い。
中でも記憶に残っているのは2011年震災直後のこの季節に読んだ、立教新座高校校長 渡辺憲司氏のメッセージだ(「卒業式を中止した立教新座高校 3 年生諸君へ。」)。名文だ。大学に進学するにせよしないにせよ、いや、その人が何歳であっても「学ぶ」ことに真摯であれというこの文章を、僕は今でも時々読み返す。
そして今年も、素晴らしいメッセージに出会った。
京都市立芸術大学学長の鷲田清一氏のメッセージだ。
(「平成29年度京都市立芸術大学入学式 学長式辞」)
その中で、歌人・寺山修司氏の言葉を引用してこう述べている。
「 音楽についてこんな問いを発した人がいます。——「音楽で人を殺せるか?」 歌人で演劇家でもあった寺山修司は,音楽がもし人を支え,救うことができるのなら,それで人を殺すことだったできるはずではないかと問いました。芸術は社会の芯にほんとうに届いているか,それができなければ最後まで無害なお飾りで終わるのではないか,命懸けで取り組むというものではなくなるのではないか……と問いを研ぎ澄ましたのです。衝撃でした。どの領域でどのような問いを立てるときも,いつもこれくらい想像力を研ぎ澄ませておかないとだめなんだと思い知らされました。
みなさんもこれから制作や演奏に取り組むなかで,きっと何度も悩むはずです。描けなくなったら,弾けなくなったらどうしようという焦りもあれば,自分には才能も,いやそもそも意欲がないのではないかと考え込むことにもなるでしょう。けれども問いはそのようにみなさんの内側にあるだけでなく,問いを掘り下げていけば,社会のさまざまな困難にも接続していきます。わたしたちは一定の歴史状況の中に生まれ落ちたからです。〈わたし〉が抱え込む問題はかならずどこかで〈社会〉の抱え込む問題につながっているからです。」
時として、芸術は「作者のひとりよがり」のようにも感じられるし、どこまでも「自分」を突き詰めることが大事という面もある中で、芸術は社会とのつながっているというメッセージ。そういった環境で学べる学生をうらやましくも思う。
そして、「音楽で人を殺せるか」という言葉の引用に、思わずギクリとしてしまった。
なぜなら、自分が取り組む書道は言葉の芸術であり、
言葉は、きっと人を殺せると思うから。
言葉は、
人を勇気づけたり慰めることもできる一方で、おそろしく傷つけることもできる。
僕は一人の表現者として、もちろんいい意味で人を突き動かすような表現をしていきたい。けれど、その「言葉」はともすれば人を侵す危険をも孕んでいることを忘れてはいけない。決して善悪を二極化できないそのはざまで納得いく表現をするために、やはり学び続けなければいけない。
鷲田氏の言葉に触れ、あらためて自らの心を引き締めた。
自分の内なる言葉、人々の言葉、動機はいつもその声の中にある。
その声はきこえるか。