「良い本があるのではなく、良い読書があるのだ」
読み始める本を目の前に、ふとこんな言葉を思い出した。
最後の宮大工と称され、法隆寺・薬師寺の修理に携わった
西岡常一氏の著書「木に学べ」を読み、
どうしても法隆寺(の木)をみたくなり奈良にやってきた。
「法隆寺の木」をみることが、この旅の目的だった。
「いまの人たちは四半期のお金のことを考えて仕事しとるでしょう。
宮大工は100年、1000年前の職人の技を感じて、
もう100年、1000年先のために仕事をしてるんや」、
「寸法をきっちりそろえたって上手くいかんですよ。
一本一本の木が違うんやから。
そのクセを上手く見極めて(木と会話をして)組んでいくんです。
人間と一緒です」。
1300年前に建立された法隆寺、
使われているヒノキの樹齢(1000年以上)も合わせれば、
目の前に建つ建物は二千数百年もの昔にそのルーツがあるわけだ。
10年前に中学校の卒業旅行で法隆寺を訪れたことはあった。
でも「何を想った」のか、恥ずかしながらその時のことを何も覚えていない。
「なるほどこれが世界最古の木造建築か、ふむふむ」くらいに、
分かったような気になって何も考えずにいたんじゃないか。
西岡氏は書いている。
「法隆寺にきたらね、どうしてこの建物が1300年も建ち続けることができるのか、
そういうところをみてほしい。本当に飛鳥の大工は立派やった」。
そうして今日、
僕は柱の一本一本に触れながら、その「木」をみた。
生ぬるい言葉では決して表現できない。
そこには、生木として1000年以上も大地に根を張り、
そして「法隆寺」としてそこに建つものの「厳しさ」があった。
人も一緒だ。
何年も前から僕らのご先祖様がいて、
100年、1000年後の子孫たちのために、
いま僕に何ができるだろう。
そんなことを考えながら東京に向かう新幹線に乗っている。
古都奈良へのこの旅も本の1章、そんな「読書」だったのかもしれない。
最後のページをめくり、ゆっくりと本を閉じるような、そんな気持ちだ。
この文章を書き終えたいま、
次に読む本を開こうと思う。
海京