かつて戦いの道具だったモノが

 

幟1

幟、
かつては武士が自軍と敵軍を見分けるために掲げていたものです。
しかし現代においては、主に祭礼の道具の一つとして、使われています。

戦いの道具だったモノが、祈りの道具として。
時代と共に、モノもヒトも変われると思うのです。

政治家がすべきことって、
各国(一部の特定の国ではない)と上手くやっていく道を考え、
話し合うことではないのでしょうか。

私たちがするべきことって、
「難しいから」と顔を背けることではなく、
考え、声を上げることではないでしょうか。

7月1日の閣議決定で集団的自衛権の行使が容認される可能性が高いと報道されています。

平成生まれの私は、この国が戦争をしていた時代を知りません。
それでも、沖縄や広島、長崎ではその遺産・人々の言葉に涙し、
その悲惨さを強く強く感じました。

テレビの向こう側では、
いえ、今自分が生きているこの世界では、
毎日、正義の名のもとに人が人を殺しています。

「もうやめよう」って、何十年も前にこの国は気づいた。
だから、武力ではない何らかの方法でほかの国と関わってきた。
お金という形の支援が、時には批判された。
日本はカネしかださない、と。
武力を提供しないことがおかしいですか?
いやむしろ僕はそれを誇らしく思います。

必要なのは、
一方の国に加担して、もう一方の国を攻撃するのではなく、
困っている国に手を差し伸べることではないのでしょうか。

いがみあうことではなく、
喜びを共有することではないのでしょうか。
その手段を必死に考えることではないでしょうか。

「Joyful Joyful」
https://www.youtube.com/watch?v=OaEH1e_DLm0

ベートーヴェンの交響曲第9番の旋律に
ヘンリー・ファン・ダイクが歌詞をつけたものが
讃美歌としても歌い継がれています。

海京